2015年09月04日
動物の感情
動物にどれだけの感情があるのかを知る由はありませんが、
客観的に判断すれば、動物に人間と同じような感情を見ようとするのは
人間の側の都合だろうと考えられます。
例えば、コンピューターの画面上の点が動く場合でも
ランダムにスピードを変えながら色々と動き回る点を見ると
そこに何か意志のようなものを感じてしまうものです。
予測不能な変化は、擬人化したくなる。
「台風が進路を変えた」なんていう表現も、
まるで台風に意志があるかのようです。
実際は、全ての空気はつながっていますから
台風どころか高気圧や前線なんていう「もの」も存在しません。
ただ決まった範囲に名前をつけて区別しただけのものです。
にもかかわらず、区別できるようになったものは自分とは違う存在として捉え、
同時に自分がやっていることと同じようなことをしているはずだと見たくなる。
これは自分と区別される「他人」に対して、
自分とは違う存在だから内側の様子は知ることができないけれども
内側では自分が体験しているのと同じようなことが起きているだろう
と想定するのと共通した性質なんでしょう。
ロボットでも自然現象でも「心」を見ようとする人間が
比較的自分と似ている動物を見て
そこに心を感じたくなるのは無理のないことでしょう。
実際、ダーウィンはそれと同じことをやりました。
人間にも動物にも共通する基本感情というのがあると想定したわけです。
悲しみ、怒り、軽蔑、嫌悪、恐怖、驚き、幸福の7つは
世界中の文化に共通であって、霊長類でも観察できる、と。
しかしながら、こうした感情は
人間が社会生活をしている中で感じる体感覚に名前をつけたものです。
そして頻繁に体験されるものだからこそ、一般的な感情として扱われます。
怒りや悲しみなどは、人間が頻繁に体験するものでしょう。
怒りや悲しみに相当する呼び名が様々な文化に存在していて
しかも表情から判断させても共通した認識をする。
だからユニバーサルだというんです。
繰り返しますが、これらはあくまで社会生活の中で体験されるもので
大人が名前をつけた感情です。
生まれた直後から体験されている感情かどうかは分かりません。
ところが、赤ん坊でも猿でも
大人が怒りを感じたとき、悲しみを感じたときの表情と同じ表情を示します。
ここで「内側は分からないけれど、自分と同じだろう」と
想定したくなる性質が働きます。
「同じ表情を浮かべているのだから、自分が体験している感情と同じだろう」。
無自覚にそう想定して、赤ん坊にも猿にも怒りや悲しみがあると考えたのでしょう。
そうとは限りません。
本来、赤ん坊も猿も、その表情を別の状態で使っていたのかもしれません。
それが社会生活の中では、怒りや悲しみと呼ばれる状態と結びついた。
学習の結果として流用されるようになった状態であって、
怒りや悲しみという感情は、生物として元々持っているものではない可能性があります。
つまり、怒りや悲しみは社会生活をする人間の大人が
生育過程で身につけてきた反応パターンなのではないか、と。
そうであれば、他の動物や乳児は、
人間の大人が体験している怒りや悲しみを感じていないことになります。
そして、よく考えてみると、そちらのほうが筋が通っています。
怒りは悲しみは学習の産物だと考えられます。
決して本能的、動物的なものではない。
逆に、火事に巻き込まれている最中に感じる恐怖や、
急に大きな物音がしたときに感じる驚きは、動物にも共通するものでしょう。
でも、怒りや悲しみはもっと複雑です。
おそらく動物は感じていません。
たしかに表情だけなら、犬でも猿でも
人間が怒っているときのような様子にも
悲しんでいるときのような様子にもなります。
犬や猿のそうした表情は、きっと
もっと生物的に共通した感情反応だと思われます。
怒りではなく、それは敵意です。
悲しみではなく、それは心細さ(寂しさ)です。
敵意は身の危険(群れの危険)が迫っているときに
ストレス応答として『戦う』準備をしている状態だといえます。
敵を追い払って、元の安全な状態に戻ろうとするホメオスタシスです。
心細さ(寂しさ)は、群れとの繋がりを求める状態です。
繋がりの強いメンバーと離れたときに、元通り近くにいようとする動機づけ。
他のメンバーを呼ぶとか探すといった行動を引き起こします。
一緒にいる安全な状態に戻ろうとするホメオスタシスです。
人間の乳児も同じような反応を示します。
母親が離れれば、心細さ(寂しさ)の反応が起こって泣く。
動物が群れのメンバーを呼ぶようなものです。
敵意を表し始めるのは少し成長してからですが、例えば
オモチャを取られて癇癪を起こすのは動物に近い反応といえそうです。
むしろもっと早くからあるのは、
ストレス応答としての『戦う』状態を利用して
泣き叫ぶことで思い通りにしてもらおうとするケースです。
人間の赤ん坊は自分で身を守れる状態で生まれていません。
そもそも体を使いこなせない段階で生まれています。
ですから身を守る手段は、親や世話をしてくれる人に
自分の不都合を解消してもらうところにあります。
ですが、ちょっと泣いたぐらいでは
思い通りに不都合を解消してもらえないことがある。
まして泣いても来てくれない場合などは生存の危機です。
身の危険が迫っていますから、敵に襲われたのと同じような状況といえます。
当然、ストレス応答として、状況を打破するために『戦う』モードになります。
そして全身に力を入れ、目いっぱい泣きわめく。
2歳前後になると、泣いているかのように叫びながら
大人でいうところの怒りの状態で、親をコントロールする場合も見受けられます。
そうやって生存の危機を回避しようとして、心細さ(寂しさ)と
周りを思い通りにするためのエネルギー(敵意/ストレス応答)とを学習します。
やがて、思い通りにならないことがあったら『戦う』のストレス応答を使って
力いっぱいにメッセージを表現する反応の仕方を身につけます。
怒鳴ったり、叩いたり、癇癪を起したり…。
そののちに表現の部分で我慢することも学んだりしますが、
この時点でも充分に
「思い通りにならなかったら、怒る」
という怒りの基本パターンが身についているといえます。
こうやって学習した怒りという反応パターンは、
動物の敵意とは質が異なっています。
動物は自分を脅かすものに対して敵意を表現しますが、
人間は、思い通りにならないときに怒りを感じるわけです。
また、乳児の心細さ(寂しさ)は助けを求めるメッセージとして学習されます。
どうすることもできないときに、とりあえず心細い状態になり、泣いて親を呼ぶ。
そうやっていくうちに、
「どうすることもできないときに、心細くなる」
という悲しみの基本パターンが定着します。
もちろん、親が近くにいないことで、心細さ(寂しさ)が生まれる場合もあります。
しかし、大人が「悲しみ」と呼んでいる感情は、
純粋な心細さや寂しさからは、もう離れてしまっています。
自分ではどうすることもできない状態、挽回できないような状態になったとき
心の中には子供のころに学習された心細さ(寂しさ)が沸き上がります。
つまり「失われた」という認識に対して、心細さが沸くわけです。
だから失敗して悲しくなるとか、思い通りにいかなくて悲しくなるなど
本来の心細さとは違った対象に、心細さや寂しさと同じような反応が出るんです。
ここに動物が体験する心細さ(寂しさ)との違いがあるといえます。
子供の頃には「失う」体験はそれほど多くないものです。
アイスを落っことしたとか、オモチャが壊れたとかでしょう。
しかし経験を重ねるにつれて、愛着を感じる存在、繋がりの強い存在が増えます。
そしてその繋がりが失われることを経験します。
このときには「どうすることもできないときに、心細くなる」反応パターンに加えて、
「その相手と一緒にいたい」と、繋がりを取り戻そうとする心の動きが表れます。
この繋がりを取り戻そうとする反応は、動物の心細さ(寂しさ)と同じです。
乳児のときに体験していた心細さは動物と同じでしょう。
それが大きくなるにつれて、「どうすることもできないときに心細くなる」ようになる。
そうやって学習した「失うときに浮かんでくる心細さ」を悲しみと呼び始める。
ところがやがて、繋がりを失う経験をして、動物と同じような心細さも味わう。
最終的には、
失うときに感じる「どうしようもできないから心細い」という学習結果と、
「繋がりから離れてしまったから戻りたい」という動物的な心細さの反応の両方を
体験するようになっていくんです。
どちらも体の反応としては心細さですから区別が難しいのは仕方ありません。
しかし、反応を生み出す理由が違います。
感情の対象が違います。
失ったときの「どうしようもできないから心細い」という反応も悲しみと呼び、
純粋に「大切な繋がりに戻りたい」心細さが追加されたものも悲しみと呼ぶ。
元が別なんですから、対処の仕方も違います。
「大切な繋がりに戻りたい」のは、動物と同じで心細いんです。
ただ「一緒にいたい」という欲求に過ぎません。
動物は、どこに行ってしまったのか分からないけれど
一緒にいたい相手を求めて、心細さや寂しさを表現します。
それは「どうしようもできないから心細い」という人間特有の悲しみとは別物です。
そして人間もまた、一緒にいたい相手を求めて、心細さや寂しさを感じます。
これも「どうしようもできないから心細い」という人間特有の悲しみとは別物です。
ですから、大切な人を失ったときには、
失ってしまって「どうしようもできないから心細い」という人間特有の悲しみと、
「大切な相手と一緒にいたい」という心細さ(寂しさ)の両方が起きている
ということです。
同じ身体感覚ですが、何を対象にしている反応かが違うわけです。
大切な人を失って、
「どうすることもできないのが悲しくて、また会いたいから寂しい」
という具合に、2つの感情を分けてもいいのかもしれません。
人間は自分が感じている「悲しみ」と「心細さ(寂しさ)」の区別も曖昧にして
多くのことを「悲しい」の一言で片づけてしまっています。
そのうえ、動物にまで自分と同じような悲しみがあると想定しがちです。
動物は寂しさを表現するようですが、悲しいわけではありません。
動物は敵意を表現しますが、怒っているわけではありません。
怒りも悲しみも学習の産物です。
人間特有だろうと考えられます。
ややこしい話ですが、丁寧に区別してこそ理解できる気持ちもあるような気がします。
客観的に判断すれば、動物に人間と同じような感情を見ようとするのは
人間の側の都合だろうと考えられます。
例えば、コンピューターの画面上の点が動く場合でも
ランダムにスピードを変えながら色々と動き回る点を見ると
そこに何か意志のようなものを感じてしまうものです。
予測不能な変化は、擬人化したくなる。
「台風が進路を変えた」なんていう表現も、
まるで台風に意志があるかのようです。
実際は、全ての空気はつながっていますから
台風どころか高気圧や前線なんていう「もの」も存在しません。
ただ決まった範囲に名前をつけて区別しただけのものです。
にもかかわらず、区別できるようになったものは自分とは違う存在として捉え、
同時に自分がやっていることと同じようなことをしているはずだと見たくなる。
これは自分と区別される「他人」に対して、
自分とは違う存在だから内側の様子は知ることができないけれども
内側では自分が体験しているのと同じようなことが起きているだろう
と想定するのと共通した性質なんでしょう。
ロボットでも自然現象でも「心」を見ようとする人間が
比較的自分と似ている動物を見て
そこに心を感じたくなるのは無理のないことでしょう。
実際、ダーウィンはそれと同じことをやりました。
人間にも動物にも共通する基本感情というのがあると想定したわけです。
悲しみ、怒り、軽蔑、嫌悪、恐怖、驚き、幸福の7つは
世界中の文化に共通であって、霊長類でも観察できる、と。
しかしながら、こうした感情は
人間が社会生活をしている中で感じる体感覚に名前をつけたものです。
そして頻繁に体験されるものだからこそ、一般的な感情として扱われます。
怒りや悲しみなどは、人間が頻繁に体験するものでしょう。
怒りや悲しみに相当する呼び名が様々な文化に存在していて
しかも表情から判断させても共通した認識をする。
だからユニバーサルだというんです。
繰り返しますが、これらはあくまで社会生活の中で体験されるもので
大人が名前をつけた感情です。
生まれた直後から体験されている感情かどうかは分かりません。
ところが、赤ん坊でも猿でも
大人が怒りを感じたとき、悲しみを感じたときの表情と同じ表情を示します。
ここで「内側は分からないけれど、自分と同じだろう」と
想定したくなる性質が働きます。
「同じ表情を浮かべているのだから、自分が体験している感情と同じだろう」。
無自覚にそう想定して、赤ん坊にも猿にも怒りや悲しみがあると考えたのでしょう。
そうとは限りません。
本来、赤ん坊も猿も、その表情を別の状態で使っていたのかもしれません。
それが社会生活の中では、怒りや悲しみと呼ばれる状態と結びついた。
学習の結果として流用されるようになった状態であって、
怒りや悲しみという感情は、生物として元々持っているものではない可能性があります。
つまり、怒りや悲しみは社会生活をする人間の大人が
生育過程で身につけてきた反応パターンなのではないか、と。
そうであれば、他の動物や乳児は、
人間の大人が体験している怒りや悲しみを感じていないことになります。
そして、よく考えてみると、そちらのほうが筋が通っています。
怒りは悲しみは学習の産物だと考えられます。
決して本能的、動物的なものではない。
逆に、火事に巻き込まれている最中に感じる恐怖や、
急に大きな物音がしたときに感じる驚きは、動物にも共通するものでしょう。
でも、怒りや悲しみはもっと複雑です。
おそらく動物は感じていません。
たしかに表情だけなら、犬でも猿でも
人間が怒っているときのような様子にも
悲しんでいるときのような様子にもなります。
犬や猿のそうした表情は、きっと
もっと生物的に共通した感情反応だと思われます。
怒りではなく、それは敵意です。
悲しみではなく、それは心細さ(寂しさ)です。
敵意は身の危険(群れの危険)が迫っているときに
ストレス応答として『戦う』準備をしている状態だといえます。
敵を追い払って、元の安全な状態に戻ろうとするホメオスタシスです。
心細さ(寂しさ)は、群れとの繋がりを求める状態です。
繋がりの強いメンバーと離れたときに、元通り近くにいようとする動機づけ。
他のメンバーを呼ぶとか探すといった行動を引き起こします。
一緒にいる安全な状態に戻ろうとするホメオスタシスです。
人間の乳児も同じような反応を示します。
母親が離れれば、心細さ(寂しさ)の反応が起こって泣く。
動物が群れのメンバーを呼ぶようなものです。
敵意を表し始めるのは少し成長してからですが、例えば
オモチャを取られて癇癪を起こすのは動物に近い反応といえそうです。
むしろもっと早くからあるのは、
ストレス応答としての『戦う』状態を利用して
泣き叫ぶことで思い通りにしてもらおうとするケースです。
人間の赤ん坊は自分で身を守れる状態で生まれていません。
そもそも体を使いこなせない段階で生まれています。
ですから身を守る手段は、親や世話をしてくれる人に
自分の不都合を解消してもらうところにあります。
ですが、ちょっと泣いたぐらいでは
思い通りに不都合を解消してもらえないことがある。
まして泣いても来てくれない場合などは生存の危機です。
身の危険が迫っていますから、敵に襲われたのと同じような状況といえます。
当然、ストレス応答として、状況を打破するために『戦う』モードになります。
そして全身に力を入れ、目いっぱい泣きわめく。
2歳前後になると、泣いているかのように叫びながら
大人でいうところの怒りの状態で、親をコントロールする場合も見受けられます。
そうやって生存の危機を回避しようとして、心細さ(寂しさ)と
周りを思い通りにするためのエネルギー(敵意/ストレス応答)とを学習します。
やがて、思い通りにならないことがあったら『戦う』のストレス応答を使って
力いっぱいにメッセージを表現する反応の仕方を身につけます。
怒鳴ったり、叩いたり、癇癪を起したり…。
そののちに表現の部分で我慢することも学んだりしますが、
この時点でも充分に
「思い通りにならなかったら、怒る」
という怒りの基本パターンが身についているといえます。
こうやって学習した怒りという反応パターンは、
動物の敵意とは質が異なっています。
動物は自分を脅かすものに対して敵意を表現しますが、
人間は、思い通りにならないときに怒りを感じるわけです。
また、乳児の心細さ(寂しさ)は助けを求めるメッセージとして学習されます。
どうすることもできないときに、とりあえず心細い状態になり、泣いて親を呼ぶ。
そうやっていくうちに、
「どうすることもできないときに、心細くなる」
という悲しみの基本パターンが定着します。
もちろん、親が近くにいないことで、心細さ(寂しさ)が生まれる場合もあります。
しかし、大人が「悲しみ」と呼んでいる感情は、
純粋な心細さや寂しさからは、もう離れてしまっています。
自分ではどうすることもできない状態、挽回できないような状態になったとき
心の中には子供のころに学習された心細さ(寂しさ)が沸き上がります。
つまり「失われた」という認識に対して、心細さが沸くわけです。
だから失敗して悲しくなるとか、思い通りにいかなくて悲しくなるなど
本来の心細さとは違った対象に、心細さや寂しさと同じような反応が出るんです。
ここに動物が体験する心細さ(寂しさ)との違いがあるといえます。
子供の頃には「失う」体験はそれほど多くないものです。
アイスを落っことしたとか、オモチャが壊れたとかでしょう。
しかし経験を重ねるにつれて、愛着を感じる存在、繋がりの強い存在が増えます。
そしてその繋がりが失われることを経験します。
このときには「どうすることもできないときに、心細くなる」反応パターンに加えて、
「その相手と一緒にいたい」と、繋がりを取り戻そうとする心の動きが表れます。
この繋がりを取り戻そうとする反応は、動物の心細さ(寂しさ)と同じです。
乳児のときに体験していた心細さは動物と同じでしょう。
それが大きくなるにつれて、「どうすることもできないときに心細くなる」ようになる。
そうやって学習した「失うときに浮かんでくる心細さ」を悲しみと呼び始める。
ところがやがて、繋がりを失う経験をして、動物と同じような心細さも味わう。
最終的には、
失うときに感じる「どうしようもできないから心細い」という学習結果と、
「繋がりから離れてしまったから戻りたい」という動物的な心細さの反応の両方を
体験するようになっていくんです。
どちらも体の反応としては心細さですから区別が難しいのは仕方ありません。
しかし、反応を生み出す理由が違います。
感情の対象が違います。
失ったときの「どうしようもできないから心細い」という反応も悲しみと呼び、
純粋に「大切な繋がりに戻りたい」心細さが追加されたものも悲しみと呼ぶ。
元が別なんですから、対処の仕方も違います。
「大切な繋がりに戻りたい」のは、動物と同じで心細いんです。
ただ「一緒にいたい」という欲求に過ぎません。
動物は、どこに行ってしまったのか分からないけれど
一緒にいたい相手を求めて、心細さや寂しさを表現します。
それは「どうしようもできないから心細い」という人間特有の悲しみとは別物です。
そして人間もまた、一緒にいたい相手を求めて、心細さや寂しさを感じます。
これも「どうしようもできないから心細い」という人間特有の悲しみとは別物です。
ですから、大切な人を失ったときには、
失ってしまって「どうしようもできないから心細い」という人間特有の悲しみと、
「大切な相手と一緒にいたい」という心細さ(寂しさ)の両方が起きている
ということです。
同じ身体感覚ですが、何を対象にしている反応かが違うわけです。
大切な人を失って、
「どうすることもできないのが悲しくて、また会いたいから寂しい」
という具合に、2つの感情を分けてもいいのかもしれません。
人間は自分が感じている「悲しみ」と「心細さ(寂しさ)」の区別も曖昧にして
多くのことを「悲しい」の一言で片づけてしまっています。
そのうえ、動物にまで自分と同じような悲しみがあると想定しがちです。
動物は寂しさを表現するようですが、悲しいわけではありません。
動物は敵意を表現しますが、怒っているわけではありません。
怒りも悲しみも学習の産物です。
人間特有だろうと考えられます。
ややこしい話ですが、丁寧に区別してこそ理解できる気持ちもあるような気がします。