2015年09月23日
お手本を見て学ぶ
今年もまた書道作品の制作シーズンになりました。
まずは先生のお手本を見せてもらうところから。
流派や教室によってお手本の扱いは違うらしいのですが
僕が通っている先生は親切で熱心な方なので
一人一人にお手本を書いて、見せてくれます。
日頃の練習のときは半紙のサイズで
古典の臨書(昔に書かれた名作を手本にして書くこと)をするばかりなので
作品用に大きな紙に書くところは、年に一度しか見ることができないんです。
作品感の出し方というか、
「どうやったら、ただの真似ではない1つの作品としての表現ができるか」
という部分を教わることができるのは、このお手本の機会ぐらいなものです。
紙面全体のバランスのとり方とか、雰囲気の強調の仕方、
リズムや筆の動きを線に反映させるための体の使い方、
目を引くような線質を出すための筆使い…
そういった様々な技を見ることができます。
特にオリジナル作品のお手本ともなると
構成や線質、白黒のバランスを組み立てていくプロセスを見られるので、
ただの模倣から表現の段階へと移行するところが学べる貴重なチャンスなんです。
書道は芸術とは言いながらも、デタラメが許容される世界ではありません。
古典や名作のエッセンスだけを抽出して、組み合わせたりしながらも
そのうえにオリジナリティを加えていくことが求められます。
その意味では料理に似ているのかもしれません。
美味しさの基準は、いろいろと美味しいものを食べるうちに身につく。
美味しくするための基本を学ぶ。
それから創作料理に進んでいく、といった感じでしょうか。
オリジナル料理だと言いながらデタラメに食材を混ぜてしまっては
何が美味しいんだか分からなくなってしまうはずです。
やはり重要なポイントは本質的な要素として抽出される必要があります。
名作の真似をしてエッセンスを掴み、紙の上に表してみたい雰囲気を
そのエッセンスを取り入れながら組み立てていくわけです。
普段の練習では真似のところまでですから、
自分の中にどれだけのエッセンスが抽出されてきているのかを
自覚することさえできません。
日頃の練習で経験的に身につけてきたエッセンスを
自分なりの応用として出してみる段階が作品制作なのかもしれませんが、
古典の臨書で学べるのは筆使いや、文字のバランスのとり方といったところまで。
作品としての良さの基準は、他にも歴史を通じて積み上げられてきています。
そのほかにも
紙面全体の構成、
白黒のバランスのとり方、
雰囲気の強調の仕方、
紙面全体の動きの流れ、
線質、
筆の動きを反映するリズムや立体感、
全体が醸し出す雰囲気、
…などと
たくさんの要素が必要なようです。
日頃の練習から、作品までの間には
これだけ多くのステップがあるということ。
これらを学ぶチャンスは古典の臨書からというよりも
達人のやり方を見るときにこそあるような気がします。
料理の喩えに戻るなら、普段の臨書の練習は
包丁の使い方や鍋の振り方のトレーニングから
オムレツやチャーハンなどの基本料理を徹底的に練習する段階
のようなものでしょう。
作品制作のプロセスは
実際に様々なレシピで料理をしてみながら
達人の様々な技を盗みつつ、味を近づけていく工夫をする段階
といった感じ。
この機会が少ないんです。
年に一度、お手本を書いてもらう時期は
先生が作品を作り上げるプロセスを間近で見せてもらって
そのやり方を模倣するチャンスなわけです。
普段できない勉強ができます。
そのため、できるだけ多くの人のお手本書きの作業を
一生懸命目に焼き付けておきたい。
先生は別に、作品制作のコツを言葉にして、
セミナーで教えてくれるわけではありません。
ときどき「もっとこうしよう」という言葉は聞けますが
その理由については推し量るしかないみたいです。
ですから、ひたすら見る。
僕の好きだったマンガで
『ゼロ 〜THE MAN OF THE CREATION〜 』
というのがあって、
一目見たものは何でも複製できる贋作者が主人公でした。
僕は中学か高校生ぐらいの頃から
見たものを真似できるようになる
ということに憧れがあったのかもしれません。
今、僕が書道教室で先生のお手本を見るときは
まさにそんなつもりで凝視している気がします。
先日は6時間ほど見てきました。
他の生徒は平気な顔をしていましたが
僕はもうヘトヘトです。
目は疲れるし、アゴはいたくなるし、首も肩も重くなるし…
三叉神経が刺激され過ぎて偏頭痛ギリギリの状態でした。
皆どうしてあんなに平気な顔で楽しそうに過ごせるのだろう?
と疑問に思うばかり。
もっと体力が必要なのかもしれませんが。
見て盗むというのは大変なものだと実感します。
まずは先生のお手本を見せてもらうところから。
流派や教室によってお手本の扱いは違うらしいのですが
僕が通っている先生は親切で熱心な方なので
一人一人にお手本を書いて、見せてくれます。
日頃の練習のときは半紙のサイズで
古典の臨書(昔に書かれた名作を手本にして書くこと)をするばかりなので
作品用に大きな紙に書くところは、年に一度しか見ることができないんです。
作品感の出し方というか、
「どうやったら、ただの真似ではない1つの作品としての表現ができるか」
という部分を教わることができるのは、このお手本の機会ぐらいなものです。
紙面全体のバランスのとり方とか、雰囲気の強調の仕方、
リズムや筆の動きを線に反映させるための体の使い方、
目を引くような線質を出すための筆使い…
そういった様々な技を見ることができます。
特にオリジナル作品のお手本ともなると
構成や線質、白黒のバランスを組み立てていくプロセスを見られるので、
ただの模倣から表現の段階へと移行するところが学べる貴重なチャンスなんです。
書道は芸術とは言いながらも、デタラメが許容される世界ではありません。
古典や名作のエッセンスだけを抽出して、組み合わせたりしながらも
そのうえにオリジナリティを加えていくことが求められます。
その意味では料理に似ているのかもしれません。
美味しさの基準は、いろいろと美味しいものを食べるうちに身につく。
美味しくするための基本を学ぶ。
それから創作料理に進んでいく、といった感じでしょうか。
オリジナル料理だと言いながらデタラメに食材を混ぜてしまっては
何が美味しいんだか分からなくなってしまうはずです。
やはり重要なポイントは本質的な要素として抽出される必要があります。
名作の真似をしてエッセンスを掴み、紙の上に表してみたい雰囲気を
そのエッセンスを取り入れながら組み立てていくわけです。
普段の練習では真似のところまでですから、
自分の中にどれだけのエッセンスが抽出されてきているのかを
自覚することさえできません。
日頃の練習で経験的に身につけてきたエッセンスを
自分なりの応用として出してみる段階が作品制作なのかもしれませんが、
古典の臨書で学べるのは筆使いや、文字のバランスのとり方といったところまで。
作品としての良さの基準は、他にも歴史を通じて積み上げられてきています。
そのほかにも
紙面全体の構成、
白黒のバランスのとり方、
雰囲気の強調の仕方、
紙面全体の動きの流れ、
線質、
筆の動きを反映するリズムや立体感、
全体が醸し出す雰囲気、
…などと
たくさんの要素が必要なようです。
日頃の練習から、作品までの間には
これだけ多くのステップがあるということ。
これらを学ぶチャンスは古典の臨書からというよりも
達人のやり方を見るときにこそあるような気がします。
料理の喩えに戻るなら、普段の臨書の練習は
包丁の使い方や鍋の振り方のトレーニングから
オムレツやチャーハンなどの基本料理を徹底的に練習する段階
のようなものでしょう。
作品制作のプロセスは
実際に様々なレシピで料理をしてみながら
達人の様々な技を盗みつつ、味を近づけていく工夫をする段階
といった感じ。
この機会が少ないんです。
年に一度、お手本を書いてもらう時期は
先生が作品を作り上げるプロセスを間近で見せてもらって
そのやり方を模倣するチャンスなわけです。
普段できない勉強ができます。
そのため、できるだけ多くの人のお手本書きの作業を
一生懸命目に焼き付けておきたい。
先生は別に、作品制作のコツを言葉にして、
セミナーで教えてくれるわけではありません。
ときどき「もっとこうしよう」という言葉は聞けますが
その理由については推し量るしかないみたいです。
ですから、ひたすら見る。
僕の好きだったマンガで
『ゼロ 〜THE MAN OF THE CREATION〜 』
というのがあって、
一目見たものは何でも複製できる贋作者が主人公でした。
僕は中学か高校生ぐらいの頃から
見たものを真似できるようになる
ということに憧れがあったのかもしれません。
今、僕が書道教室で先生のお手本を見るときは
まさにそんなつもりで凝視している気がします。
先日は6時間ほど見てきました。
他の生徒は平気な顔をしていましたが
僕はもうヘトヘトです。
目は疲れるし、アゴはいたくなるし、首も肩も重くなるし…
三叉神経が刺激され過ぎて偏頭痛ギリギリの状態でした。
皆どうしてあんなに平気な顔で楽しそうに過ごせるのだろう?
と疑問に思うばかり。
もっと体力が必要なのかもしれませんが。
見て盗むというのは大変なものだと実感します。