2015年12月23日
基礎からやり直し
コミュニケーション関係のセミナーをやっていると
何度も会ううちに技術が上達していく人たちを数多く目にします。
日本で育ち、日本語を母国語として使い、
日本文化の人間関係を生きてきたわけですから、
コミュニケーションも自然とできているといえます。
あとはどうやって目的に沿った形にできるか、でしょう。
当然、コミュニケーションをする目的には相手がいます。
となると相手の気持ちを理解する側面と
自分の気持ちを伝える側面との2つに分けられるはずです。
自分の気持ちを伝えるときには、そもそも
自分の気持ちを自覚できているのか?
というポイントがありますが、
それ以外にも
相手と自分の違いをどう埋めるか?
が重要となります。
自分の気持ちを的確に捉えて、相手に分かるように伝えようとする。
ところが自分と相手の間には、言葉の理解の仕方や価値観、
感情の感じ方など、さまざまな点で違いがあります。
ですから自分が精一杯分かりやすく伝えたつもりでも
相手が理解してくれるかどうかは定かではないわけです。
同様に、相手の気持ちを理解するときも
様々な個人差のベースの差が影響します。
ですから、コミュニケーションでいつまでも追及することになるのは
自分と他の人の違いを埋める訓練だと考えられます。
コミュニケーションにおいては、正しいやり方があるとはいえません。
目の前のある人と上手くいくやり方があるだけです。
上手くいくやり方は状況によって、相手によって違う、と。
自分が使っていない表現の仕方や感じ方があるんです。
そうすると理解が難しくなる。
あるいは、自分だけ世間一般の平均とは違ったやり方をしているかもしれない。
その辺りを自覚した上で、いかに色々な人と合わせられるかという話です。
『求められる基準を知り、
その基準に合わせられるようにする』
ともいえます。
これはコミュニケーションに限ったことではありません。
例えば書道の場合、名作とされる古典を勉強することが基礎となります。
名作のなかで繰り返し登場する筆遣いや形のバランスのとり方が
書道の分野における「美しさ」の基準なわけです。
それを習得することで、ようやく自分の表現に「美しさ」を入れられます。
いくら「書芸術」という観点で独創性を発揮しようとしても
暗黙のうちに共有されている基準に合わせることがなければ
ただの独りよがりと言われかねません。
作品を発表して人に見てもらう形は、一種のコミュニケーションです。
見てくれる人がいるのですから、見る側の基準に合わせる要素があります。
そしていくら古典として培われてきたものであっても
書道に詳しくない人から見たら「美しさ」が分かりにくいこともあり得ます。
だからこそ別の側面として、活字のバランスに合わせた綺麗な文字としての
「習字」や「書写」も存在しているのでしょう。
僕の書道の先生は、どちらかというと、こうした基礎を重視する人のようです。
自由な創作を指導してもらう機会は少ないんです。
僕個人としては古典の臨書のほうがノビノビと雰囲気を味わえるんですが、
同時に「習字」として活字に近い書き方を練習することもあります。
両方やっているからこそ、基礎をおろそかにしていない実感が味わえています。
ところが僕の語学は、意外と基礎をいい加減にしていました。
文法は体系的に勉強したというよりも、高校までで辛うじて覚えていた範囲に
あとは読解の過程で何となく経験的に身につけた感じです。
日本語でも人によって誤解があるものですから
経験的に学んだ言葉の使い方は、意外と世間で共有される標準から
外れてしまっていることも少なくないようです。
それなりに自然体で英語のコミュニケーションをするようになったからこそ
意外と基礎ができていないところがあるのに気づきます。
もちろん最初から基礎をしっかりしておけば良いのかもしれませんが、
全体的な上達のスピードからすると、基礎に抜けがあっても問題なく
そのまま進んで行けてしまうことも多いように感じます。
そのため、ある程度上達してきた実感のあるタイミングに
もう一度基礎を振り返るというのが効果的なのではないでしょうか。
実践的な経験が増えていることも、基礎の整理をさらに効果的にします。
知らないことを新たに覚えるのではなく、勘違いに気づいた形のほうが
それ以降はスムーズに修正しやすいでしょうから。
…ということで、僕はこのあたりの本を勉強しなおしてみることにしました。
どんな分野でも、ある程度上達してきた実感のあるころに
もう一度基礎をやり直してみるのは役に立つことじゃないかと思います。
何度も会ううちに技術が上達していく人たちを数多く目にします。
日本で育ち、日本語を母国語として使い、
日本文化の人間関係を生きてきたわけですから、
コミュニケーションも自然とできているといえます。
あとはどうやって目的に沿った形にできるか、でしょう。
当然、コミュニケーションをする目的には相手がいます。
となると相手の気持ちを理解する側面と
自分の気持ちを伝える側面との2つに分けられるはずです。
自分の気持ちを伝えるときには、そもそも
自分の気持ちを自覚できているのか?
というポイントがありますが、
それ以外にも
相手と自分の違いをどう埋めるか?
が重要となります。
自分の気持ちを的確に捉えて、相手に分かるように伝えようとする。
ところが自分と相手の間には、言葉の理解の仕方や価値観、
感情の感じ方など、さまざまな点で違いがあります。
ですから自分が精一杯分かりやすく伝えたつもりでも
相手が理解してくれるかどうかは定かではないわけです。
同様に、相手の気持ちを理解するときも
様々な個人差のベースの差が影響します。
ですから、コミュニケーションでいつまでも追及することになるのは
自分と他の人の違いを埋める訓練だと考えられます。
コミュニケーションにおいては、正しいやり方があるとはいえません。
目の前のある人と上手くいくやり方があるだけです。
上手くいくやり方は状況によって、相手によって違う、と。
自分が使っていない表現の仕方や感じ方があるんです。
そうすると理解が難しくなる。
あるいは、自分だけ世間一般の平均とは違ったやり方をしているかもしれない。
その辺りを自覚した上で、いかに色々な人と合わせられるかという話です。
『求められる基準を知り、
その基準に合わせられるようにする』
ともいえます。
これはコミュニケーションに限ったことではありません。
例えば書道の場合、名作とされる古典を勉強することが基礎となります。
名作のなかで繰り返し登場する筆遣いや形のバランスのとり方が
書道の分野における「美しさ」の基準なわけです。
それを習得することで、ようやく自分の表現に「美しさ」を入れられます。
いくら「書芸術」という観点で独創性を発揮しようとしても
暗黙のうちに共有されている基準に合わせることがなければ
ただの独りよがりと言われかねません。
作品を発表して人に見てもらう形は、一種のコミュニケーションです。
見てくれる人がいるのですから、見る側の基準に合わせる要素があります。
そしていくら古典として培われてきたものであっても
書道に詳しくない人から見たら「美しさ」が分かりにくいこともあり得ます。
だからこそ別の側面として、活字のバランスに合わせた綺麗な文字としての
「習字」や「書写」も存在しているのでしょう。
僕の書道の先生は、どちらかというと、こうした基礎を重視する人のようです。
自由な創作を指導してもらう機会は少ないんです。
僕個人としては古典の臨書のほうがノビノビと雰囲気を味わえるんですが、
同時に「習字」として活字に近い書き方を練習することもあります。
両方やっているからこそ、基礎をおろそかにしていない実感が味わえています。
ところが僕の語学は、意外と基礎をいい加減にしていました。
文法は体系的に勉強したというよりも、高校までで辛うじて覚えていた範囲に
あとは読解の過程で何となく経験的に身につけた感じです。
日本語でも人によって誤解があるものですから
経験的に学んだ言葉の使い方は、意外と世間で共有される標準から
外れてしまっていることも少なくないようです。
それなりに自然体で英語のコミュニケーションをするようになったからこそ
意外と基礎ができていないところがあるのに気づきます。
もちろん最初から基礎をしっかりしておけば良いのかもしれませんが、
全体的な上達のスピードからすると、基礎に抜けがあっても問題なく
そのまま進んで行けてしまうことも多いように感じます。
そのため、ある程度上達してきた実感のあるタイミングに
もう一度基礎を振り返るというのが効果的なのではないでしょうか。
実践的な経験が増えていることも、基礎の整理をさらに効果的にします。
知らないことを新たに覚えるのではなく、勘違いに気づいた形のほうが
それ以降はスムーズに修正しやすいでしょうから。
…ということで、僕はこのあたりの本を勉強しなおしてみることにしました。
どんな分野でも、ある程度上達してきた実感のあるころに
もう一度基礎をやり直してみるのは役に立つことじゃないかと思います。