2016年01月05日
ずっと忘れていた思い出
年末年始を実家に帰って両親と過ごすと
普段の自分とは違う状態になっていることに気づきます。
親子ですから相性がいいというか、ペースが合いやすいというか
自然と影響を受ける部分が大きいようです。
姿勢や体の強張りも似てきますし、意識の広がる範囲も変わります。
たまに外を散歩したり、喫茶店で勉強したりしなければ
一人でいるときの安定感や意識状態を忘れてしまいそうにもなります。
睡眠の深さや排泄の頻度などにも影響が出ていました。
実家から帰ってくると、その違いの大きさに驚くほどです。
逆に、そうした普段とは違った状態だからこそ
いつもとは違った記憶がよみがえりやすいこともあります。
生まれ育った地域や、通学路だった場所を通るだけでも
懐かしい記憶が戻ってきますし、当時との違いに時間の流れも感じます。
もちろん記憶の曖昧さにも驚くことになるんですが。
そして、ずっと忘れていた思い出も色々と戻ってきました。
正確には「記憶にあって意識化されていなかった情報」でしょう。
大部分の記憶はただ懐かしいだけです。
ところが一部の記憶には他の感情が伴っています。
特に、にがにがしい思い出は、多少ながら心の平穏を乱すものです。
一般的には多くの苦い記憶を持ちながら
それを意識することなく過ごすものなんだと思います。
別にそれで何かの問題が起きるわけでもないでしょうし。
ただ僕は、せっかく思いだしたので、その記憶を少し整理してみました。
意味づけを変えるとか、記憶を書きかえるとか、そんなに大胆なものではなく
印象を少しだけ変える感じのやり方です。
言い方を変えると、「苦い思い出」という拒否的な受け止め方ではなく
自然と自分の一部として受容的に見られるようにする感じでしょうか。
痛みや罪悪感、恥や後悔などがあると
どうしても受け入れにくくなるもののようです。
そういった感情のわだかまりが無くなるから受け入れられるのか、
受け入れられるから感情のわだかまりが解消されるのか、
順番がどちらなのかは分かりませんが、少なくとも
にがにがしい感情が消えて、1つの思い出として受け入れられるようにはなる。
特に、そうした過去の思い出が蘇りにくくなっているということは
その苦い印象を持っている自分を『自分らしさ』として捉えている
という意味でもあるようです。
裏を返すと、
嫌な思い出や心の傷があって、何とかしたい気持ちがあるからこそ
そうした過去のことが、いつまでも意識に上がるわけです。
たとえ罪悪感があって、それを手放したくない気持ちがあったとしても
罪悪感が意識に上がっている以上、罪悪感を気にしている部分があって
解消したい気持ちがゼロではないんです。
本当に罪悪感さえも受け入れていたら
ごくたまに思いだしたときにだけ罪悪感が思い出され、
「あぁ、こんな罪悪感を持っていたんだ!」などと驚くはずです。
つまり、日頃から意識に上がる感情のわだかまりは
そのわだかまりを受け入れてない部分があることの合図だということです。
解消したいと思っている部分があるんです。
もし、わだかまりを意識していながらも、それを手放したくないとしたら
『わだかまりを持ち続けたい』自分の一部が
『わだかまりを解消したい』部分よりも強い
という意味だといえます。
心の中で対立があります。
「解消したいけど、いつも引きずってしまう」だとしたら
『わだかまりを持ち続けたい』よりも『わだかまりを解消したい』が強い。
「解消したいとは思わないけど、普段から意識には上がる」だとしたら
『わだかまりを解消したい』よりも『わだかまりを持ち続けたい』が強い。
強さのバランスで印象が変わりますが、どちらも対立しているんです。
対立していなければ意識に上がらなくなります。
よほどのキッカケがないと思い出されない。
話を戻しますが、
思い出されないほどの過去のわだかまりは
『わだかまりを解消したい』部分が心の中に生まれてこないほどに
わだかまりがある状態を『自分らしさ』として当たり前に認識している
合図だということです。
ですから僕の中にあった苦い思い出のいくつかは
あまりにも当たり前になって『自分らしさ』の一部として捉えてしまっていた
自分の土台のような過去のわだかまりだったわけです。
基礎工事のときにあった歪みがそのままになっていて
その上に建物を築いてしまったようなイメージでしょうか。
欠陥住宅というほどではないから気にしていなかったけれども
こんなところに歪みがあったんだ…といった感じ。
これらの苦い思い出に対しては、
『自分らしさ』の範囲を広げるプロセスが進むようです。
意識的に『自分らしさ』を変えるというよりは
結果的にそうなるような流れです。
することはシンプル。
ただ懐かしく、愛おしく感じるだけです。
他人が同じことをした場合には微笑ましく受け止められるのに
過去の自分に対しては苦い感情を伴ってしまう。
だったら、他人を見るような視点で過去の自分を眺め
当時の自分を微笑ましく感じれば良い、と。
そのことが自分にどれだけの影響を与えるのかは分かりませんが、
ふと思い出された苦い思い出が、懐かしいものという印象に変わるのは
なかなか良い気分ではないかと感じます。
久しく思い出されていなかった苦い思い出は、意外と簡単に
懐かしく微笑ましいものとして受け入れられるようです。
普段の自分とは違う状態になっていることに気づきます。
親子ですから相性がいいというか、ペースが合いやすいというか
自然と影響を受ける部分が大きいようです。
姿勢や体の強張りも似てきますし、意識の広がる範囲も変わります。
たまに外を散歩したり、喫茶店で勉強したりしなければ
一人でいるときの安定感や意識状態を忘れてしまいそうにもなります。
睡眠の深さや排泄の頻度などにも影響が出ていました。
実家から帰ってくると、その違いの大きさに驚くほどです。
逆に、そうした普段とは違った状態だからこそ
いつもとは違った記憶がよみがえりやすいこともあります。
生まれ育った地域や、通学路だった場所を通るだけでも
懐かしい記憶が戻ってきますし、当時との違いに時間の流れも感じます。
もちろん記憶の曖昧さにも驚くことになるんですが。
そして、ずっと忘れていた思い出も色々と戻ってきました。
正確には「記憶にあって意識化されていなかった情報」でしょう。
大部分の記憶はただ懐かしいだけです。
ところが一部の記憶には他の感情が伴っています。
特に、にがにがしい思い出は、多少ながら心の平穏を乱すものです。
一般的には多くの苦い記憶を持ちながら
それを意識することなく過ごすものなんだと思います。
別にそれで何かの問題が起きるわけでもないでしょうし。
ただ僕は、せっかく思いだしたので、その記憶を少し整理してみました。
意味づけを変えるとか、記憶を書きかえるとか、そんなに大胆なものではなく
印象を少しだけ変える感じのやり方です。
言い方を変えると、「苦い思い出」という拒否的な受け止め方ではなく
自然と自分の一部として受容的に見られるようにする感じでしょうか。
痛みや罪悪感、恥や後悔などがあると
どうしても受け入れにくくなるもののようです。
そういった感情のわだかまりが無くなるから受け入れられるのか、
受け入れられるから感情のわだかまりが解消されるのか、
順番がどちらなのかは分かりませんが、少なくとも
にがにがしい感情が消えて、1つの思い出として受け入れられるようにはなる。
特に、そうした過去の思い出が蘇りにくくなっているということは
その苦い印象を持っている自分を『自分らしさ』として捉えている
という意味でもあるようです。
裏を返すと、
嫌な思い出や心の傷があって、何とかしたい気持ちがあるからこそ
そうした過去のことが、いつまでも意識に上がるわけです。
たとえ罪悪感があって、それを手放したくない気持ちがあったとしても
罪悪感が意識に上がっている以上、罪悪感を気にしている部分があって
解消したい気持ちがゼロではないんです。
本当に罪悪感さえも受け入れていたら
ごくたまに思いだしたときにだけ罪悪感が思い出され、
「あぁ、こんな罪悪感を持っていたんだ!」などと驚くはずです。
つまり、日頃から意識に上がる感情のわだかまりは
そのわだかまりを受け入れてない部分があることの合図だということです。
解消したいと思っている部分があるんです。
もし、わだかまりを意識していながらも、それを手放したくないとしたら
『わだかまりを持ち続けたい』自分の一部が
『わだかまりを解消したい』部分よりも強い
という意味だといえます。
心の中で対立があります。
「解消したいけど、いつも引きずってしまう」だとしたら
『わだかまりを持ち続けたい』よりも『わだかまりを解消したい』が強い。
「解消したいとは思わないけど、普段から意識には上がる」だとしたら
『わだかまりを解消したい』よりも『わだかまりを持ち続けたい』が強い。
強さのバランスで印象が変わりますが、どちらも対立しているんです。
対立していなければ意識に上がらなくなります。
よほどのキッカケがないと思い出されない。
話を戻しますが、
思い出されないほどの過去のわだかまりは
『わだかまりを解消したい』部分が心の中に生まれてこないほどに
わだかまりがある状態を『自分らしさ』として当たり前に認識している
合図だということです。
ですから僕の中にあった苦い思い出のいくつかは
あまりにも当たり前になって『自分らしさ』の一部として捉えてしまっていた
自分の土台のような過去のわだかまりだったわけです。
基礎工事のときにあった歪みがそのままになっていて
その上に建物を築いてしまったようなイメージでしょうか。
欠陥住宅というほどではないから気にしていなかったけれども
こんなところに歪みがあったんだ…といった感じ。
これらの苦い思い出に対しては、
『自分らしさ』の範囲を広げるプロセスが進むようです。
意識的に『自分らしさ』を変えるというよりは
結果的にそうなるような流れです。
することはシンプル。
ただ懐かしく、愛おしく感じるだけです。
他人が同じことをした場合には微笑ましく受け止められるのに
過去の自分に対しては苦い感情を伴ってしまう。
だったら、他人を見るような視点で過去の自分を眺め
当時の自分を微笑ましく感じれば良い、と。
そのことが自分にどれだけの影響を与えるのかは分かりませんが、
ふと思い出された苦い思い出が、懐かしいものという印象に変わるのは
なかなか良い気分ではないかと感じます。
久しく思い出されていなかった苦い思い出は、意外と簡単に
懐かしく微笑ましいものとして受け入れられるようです。