2016年01月25日
土台としての理解
知識として「知っている」ことと
経験を通じて「納得している」ことと
仕組みや原理として「理解している」こととの間には
大きな違いがあります。
知識として「知っている」というのは
与えられた情報を覚えれば完結します。
それが正しいと信じておけばいいだけ。
学校の勉強の中にも、この知識のための暗記が沢山あります。
経験を通じて「納得している」というのは
出来事を一般化して法則を見出したり、
知識として仕入れた法則が経験に当てはまるのを実感したりすることです。
具体例としての経験を沢山もっていて、
その法則が経験に適用できることが分かる。
具体的な経験と抽象的な法則との間に結びつきがある状態です。
法則が当てはまるということは、具体例が数多く見つかって
しかも法則の当てはまらない例外が少ないということでもあります。
法則に当てはまる事例が自分の記憶の中から多く見つかり、
当てはまらないケースは見当たらない。
だから「この法則は正しそうだ。確かに。納得できる。」という実感になります。
一方、仕組みや原理として「理解している」というのは
出来事として見てとれることを「どのようにして、そうなるのか?」
という観点で説明できる状態です。
数学で説明したり、構成要素で考えたり。
ツールとして数学を使いながら、物理や化学の考え方で
出来事を矛盾なく説明します。
「こうなったら、こうなる」という見た目上の法則ではなく、
論理的な飛躍や矛盾を含まないように、要素を分解しながら
メカニズムとして追いかけられるのが「理解している」ことと言えるでしょう。
例えば、「今朝、太陽が東から昇った」というのは見てとれる出来事です。
そして毎日太陽を見ていれば「太陽は東から昇るものだ」という法則が分かります。
この法則は知識として「知っている」ことでもあり、
例外のない経験として「納得している」ことでもあります。
では太陽が東から昇ることをメカニズムとして「理解している」かというと
それには天体の運動を説明できなくてはなりません。
太陽が東から昇るのは、太陽が地球の周りを回っているからではなく
地球が自転しているからだと説明されます。
(地球が太陽の周りを回る公転は、日の出とは直接関係しない)
地球がコマのように自転しているから、地表上の一点(観測点)が
太陽からの光によって照らされる角度が移り変わっていく。
それまで太陽光の当たらない夜だった場所が
最初に光のあたる範囲に入っていくときが日の出だと言い換えられます。
つまり地球の自転の向き(北極側から見て、時計回りか、反時計回りか)が
太陽が西から昇るか、東から昇るかを決めている、と。
じゃあ、地球が自転しているというのは、どうやって確認できるのか?
太陽や月や星が地球の周りを回っているのではないと
どうやって説明できるのか?
このレベルになると、もう僕は「理解」できていません。
知識として「知っている」内容ですが、説明ができないんです。
おそらく天体の回転周期のデータを元にして
全ての天体の動きを辻褄が合うように考えると
公転と自転の両方で説明する形に収まるんでしょう。
ちゃんと計算する気も起きませんが、なんとなくの印象として
月食の変化のスピードなんかを考えると
単純に月と太陽が地球の周りを回っているという説明では
厳しくなりそうな感じがします。
火星や水星の見える位置が移り変わっていくときに
移動が逆向きになったように見える時期がある「らしい」ですが、
そうした現象も自転と公転でなければ説明がつかなかった記憶があります。
いずれにしても、僕自身がデータを元にして
メカニズムとして説明できるわけではありません。
僕の中で地球の自転も公転も「知識」でしかないんです。
ある程度の「理解」も含まれますが、
かなりの部分が知識として「知っている」に過ぎません。
太陽が東から昇ることを経験的に「納得している」のと同時に
自転や公転といった知識を「知っている」ところがあって、
その知識を元にして仕組みの一部分だけを「理解している」。
その程度なんです。
普通に生活していたら、
「分かっている」ことの大部分は
知識として「知っている」だけ
経験的に「納得している」か
ぐらいなもので、
仕組みとして「理解している」ことは凄く少ないはずです。
だからといって日常生活で困ることは滅多にないでしょうけれど
「理解している」度合いを自覚しておかないと
つい「分かったつもり」になってしまうような気がします。
「知っている」ことは「分かっている」ことのホンの一部でしかないはずです。
知識として「知っている」ためには、
ただ与えられた情報を覚えればいいわけです。
ともすると鵜呑みにしかねません。
「理解」していれば矛盾に気づけることも
「知っている」だけでは見逃してしまうかもしれません。
結果としてトラブルに巻き込まれて、必要以上に苦しむ可能性も…。
理解しようとする心がけだけでも役に立つところがあるんじゃないでしょうか。
この本なんかは助けになりそうです。
経験を通じて「納得している」ことと
仕組みや原理として「理解している」こととの間には
大きな違いがあります。
知識として「知っている」というのは
与えられた情報を覚えれば完結します。
それが正しいと信じておけばいいだけ。
学校の勉強の中にも、この知識のための暗記が沢山あります。
経験を通じて「納得している」というのは
出来事を一般化して法則を見出したり、
知識として仕入れた法則が経験に当てはまるのを実感したりすることです。
具体例としての経験を沢山もっていて、
その法則が経験に適用できることが分かる。
具体的な経験と抽象的な法則との間に結びつきがある状態です。
法則が当てはまるということは、具体例が数多く見つかって
しかも法則の当てはまらない例外が少ないということでもあります。
法則に当てはまる事例が自分の記憶の中から多く見つかり、
当てはまらないケースは見当たらない。
だから「この法則は正しそうだ。確かに。納得できる。」という実感になります。
一方、仕組みや原理として「理解している」というのは
出来事として見てとれることを「どのようにして、そうなるのか?」
という観点で説明できる状態です。
数学で説明したり、構成要素で考えたり。
ツールとして数学を使いながら、物理や化学の考え方で
出来事を矛盾なく説明します。
「こうなったら、こうなる」という見た目上の法則ではなく、
論理的な飛躍や矛盾を含まないように、要素を分解しながら
メカニズムとして追いかけられるのが「理解している」ことと言えるでしょう。
例えば、「今朝、太陽が東から昇った」というのは見てとれる出来事です。
そして毎日太陽を見ていれば「太陽は東から昇るものだ」という法則が分かります。
この法則は知識として「知っている」ことでもあり、
例外のない経験として「納得している」ことでもあります。
では太陽が東から昇ることをメカニズムとして「理解している」かというと
それには天体の運動を説明できなくてはなりません。
太陽が東から昇るのは、太陽が地球の周りを回っているからではなく
地球が自転しているからだと説明されます。
(地球が太陽の周りを回る公転は、日の出とは直接関係しない)
地球がコマのように自転しているから、地表上の一点(観測点)が
太陽からの光によって照らされる角度が移り変わっていく。
それまで太陽光の当たらない夜だった場所が
最初に光のあたる範囲に入っていくときが日の出だと言い換えられます。
つまり地球の自転の向き(北極側から見て、時計回りか、反時計回りか)が
太陽が西から昇るか、東から昇るかを決めている、と。
じゃあ、地球が自転しているというのは、どうやって確認できるのか?
太陽や月や星が地球の周りを回っているのではないと
どうやって説明できるのか?
このレベルになると、もう僕は「理解」できていません。
知識として「知っている」内容ですが、説明ができないんです。
おそらく天体の回転周期のデータを元にして
全ての天体の動きを辻褄が合うように考えると
公転と自転の両方で説明する形に収まるんでしょう。
ちゃんと計算する気も起きませんが、なんとなくの印象として
月食の変化のスピードなんかを考えると
単純に月と太陽が地球の周りを回っているという説明では
厳しくなりそうな感じがします。
火星や水星の見える位置が移り変わっていくときに
移動が逆向きになったように見える時期がある「らしい」ですが、
そうした現象も自転と公転でなければ説明がつかなかった記憶があります。
いずれにしても、僕自身がデータを元にして
メカニズムとして説明できるわけではありません。
僕の中で地球の自転も公転も「知識」でしかないんです。
ある程度の「理解」も含まれますが、
かなりの部分が知識として「知っている」に過ぎません。
太陽が東から昇ることを経験的に「納得している」のと同時に
自転や公転といった知識を「知っている」ところがあって、
その知識を元にして仕組みの一部分だけを「理解している」。
その程度なんです。
普通に生活していたら、
「分かっている」ことの大部分は
知識として「知っている」だけ
経験的に「納得している」か
ぐらいなもので、
仕組みとして「理解している」ことは凄く少ないはずです。
だからといって日常生活で困ることは滅多にないでしょうけれど
「理解している」度合いを自覚しておかないと
つい「分かったつもり」になってしまうような気がします。
「知っている」ことは「分かっている」ことのホンの一部でしかないはずです。
知識として「知っている」ためには、
ただ与えられた情報を覚えればいいわけです。
ともすると鵜呑みにしかねません。
「理解」していれば矛盾に気づけることも
「知っている」だけでは見逃してしまうかもしれません。
結果としてトラブルに巻き込まれて、必要以上に苦しむ可能性も…。
理解しようとする心がけだけでも役に立つところがあるんじゃないでしょうか。
この本なんかは助けになりそうです。