2016年03月19日
関心と好奇心
結論から言ってしまえば、
関心を向けるのは難しいんです。
人は好きなものに対しては細かく注意が向きます。
いろいろと知りたくもなるし、いつも見ていたり聞いていたりしたい。
裏を返せば、常に関心が向いて、いつも意識に上げているものを
「好き」と呼んでいるのかもしれません。
反面、「好き」ではないものには、日頃ほとんど注意が向かないものです。
視野に入っていても見ようとしていない。
記憶を頼りに大まかな処理をして、実物には目を向けません。
理科の授業などで、観察したものを絵に描くことがあったかもしれませんが、
あれは本質的には、記録に意味があるのではなく、
描こうとしたときに自然と細部にまで注意が向くようになる
ことが重要なのではないでしょうか。
つまり、ただ観察しようとしても、それは普段の延長でしかなく
見たつもりにしかなっていない、ということです。
絵に描こうとしたとき、初めて普段は見ていなかった部分も見るようになる。
関心の向いていなかったところに関心が行く、と。
そのように普段とは違う見方を必要とする課題を設定するのは、
普段の関心の範囲から出るように強制する方法の1つだといえます。
そうでもしない限り
自分の知っている範囲の延長で済ませてしまいやすいんです。
人と関わる上でも、相手にどれだけ関心を向けられるかは重要です。
カール・ロジャースが述べたカウンセリングの必要条件の1つ
『無条件の肯定的配慮』も、いわば
相手へ100%の関心を向けられることと言い換えられるかもしれません。
(配慮は英語で「 regard 」の訳。
日本語の「配慮」ほど「汲みとる」ような「気配り」のような意味は弱く、
「関わりがある、関与がある」の意味を土台として
気持ちがつながっているとか、気持ちが向いているといった趣旨に近い。)
自分の価値観、善悪の基準とは無関係に、
とにかく相手のすべてに対してニュートラルに関心が向く。
好きなものをずっと眺めていられるときと同じように相手に注意が向いてしまう。
そんな感じで人と接すると、相手は自然と満たされて楽になれるものだ、と。
そういう主張だったようです。
これは僕も経験上、実感するところですし
それこそが何よりも難しいところでもあると感じます。
相手に関心を向ける重要性を説いているのは、
おそらくミルトン・エリクソンもそうだったように思うんです。
ただ彼は「好奇心」という言葉を使っていたみたいですが。
「好奇心」は大きく分けると、2通りです。
1つは「知らないことに関心が向く」こと。
もう1つは「奇妙なことに関心が向く」こと。
日本語で「好奇」というと、
(”普通”と比べて)変わっている、珍しいことを面白いと感じる
意味合いが強いように思います。
純粋に「知らないことを知りたい」という気持ちよりも、もう少し
「あれ?なんでだろう?おかしいな?不思議だな?」という感じ。
「奇妙なことに関心が向くこと」としての好奇心として
解釈されがちなのではないか、と感じます。
一方、ミルトン・エリクソンは多分
「知らないことに関心が向くこと」を好奇心と呼んでいたと思われます。
なぜならエリクソンの土台には、
口癖のように発せられていた「 I don't know 」にも表れるように
「知らない」というスタンスを重視していた様子がうかがえるからです。
目の前のクライアントのことを本当に知らない。
だから知ろうとできる。
それを「好奇心」と呼んだのではないか、という話です。
しかしながら「知らない」というスタンスを維持しながら
何かに関心を向けるのは難しいものだといえます。
「知らない」は「知っている」の反対として認識されやすく、
知っていることに結びつけながら情報を増やすのが一般的です。
「これは知っている。でも、こっちは知っていることと違う。
じゃあ、いったい何なんだ?」
といって知りたい気持ちが沸く流れです。
そうやって、知っていることと関連づけながら知ろうとするのが
知らないことを知ろうとするときの一般的な方法なわけです。
これは実のところ、「奇妙なことに関心が向く」に近いんです。
「(”普通”と比べて)変わっている、珍しいことを面白いと感じる」のは
自分の知っている”普通”と比べることに基づきます。
知っていることと対比するから
「あれ?なんでだろう?おかしいな?不思議だな?」と感じる。
知っていることがあるから生まれる好奇心なんです。
ですから「知らないことに関心が向くこと」としての好奇心のつもりでも、
知っていることと対比で「知らない」という認識を使っている限り、
その実態は「奇妙なことに関心が向く」のほうに近いことになります。
なぜこの性質を強調するのかといえば、
「知っている」との対比としての「知らない」は、結局
自分の都合で相手に関心を向けることになるからです。
「知っている」つもりのことには関心が向かないし、
「知らないから関心が向く」という条件つきの関心になります。
無条件の関心ではない、ということです。
一方、エリクソンがしていたと想像できる
「何も知らない」のスタンスからすると、
そこから生まれる好奇心は、全てのものごとに対して
無条件に向けられる純粋な関心になりえます。
相手に向けられる関心が無条件のものになるかどうかは
・「何も知らない」ことをベースにして好奇心が沸くのか
それとも
・「知っている」こととの対比として「知らない」ことに好奇心が沸くのか
の違いで変わってくると考えられるんです。
「好奇心をもって関わる」という言葉の内容からすれば
どちらも好奇心に違いないわけですが、
それぞれの種類の好奇心が作り出す内面は大きく違うはずです。
「何も知らない」から生まれる好奇心には
相手へ無条件の関心を向けさせる効果があって、
その態度が相手の心を満たすことができると期待されます。
「知っている」との対比としての「知らない」から生まれる好奇心には
そこまでの効果は期待できません。
「知っている」の対比としての「知らない」は、
自分の興味のないことに関心が向かないのと同じように、
一部のものごとにしか関心を向けないといえます。
「知っている」の延長にしか関心が向かない。
結局、大部分には無関心なままです。
「何も知らない」ということを徹底的に実感できたとき
やっと純粋な関心が生まれ始めるのではないでしょうか。
関心を向けるのは難しいんです。
人は好きなものに対しては細かく注意が向きます。
いろいろと知りたくもなるし、いつも見ていたり聞いていたりしたい。
裏を返せば、常に関心が向いて、いつも意識に上げているものを
「好き」と呼んでいるのかもしれません。
反面、「好き」ではないものには、日頃ほとんど注意が向かないものです。
視野に入っていても見ようとしていない。
記憶を頼りに大まかな処理をして、実物には目を向けません。
理科の授業などで、観察したものを絵に描くことがあったかもしれませんが、
あれは本質的には、記録に意味があるのではなく、
描こうとしたときに自然と細部にまで注意が向くようになる
ことが重要なのではないでしょうか。
つまり、ただ観察しようとしても、それは普段の延長でしかなく
見たつもりにしかなっていない、ということです。
絵に描こうとしたとき、初めて普段は見ていなかった部分も見るようになる。
関心の向いていなかったところに関心が行く、と。
そのように普段とは違う見方を必要とする課題を設定するのは、
普段の関心の範囲から出るように強制する方法の1つだといえます。
そうでもしない限り
自分の知っている範囲の延長で済ませてしまいやすいんです。
人と関わる上でも、相手にどれだけ関心を向けられるかは重要です。
カール・ロジャースが述べたカウンセリングの必要条件の1つ
『無条件の肯定的配慮』も、いわば
相手へ100%の関心を向けられることと言い換えられるかもしれません。
(配慮は英語で「 regard 」の訳。
日本語の「配慮」ほど「汲みとる」ような「気配り」のような意味は弱く、
「関わりがある、関与がある」の意味を土台として
気持ちがつながっているとか、気持ちが向いているといった趣旨に近い。)
自分の価値観、善悪の基準とは無関係に、
とにかく相手のすべてに対してニュートラルに関心が向く。
好きなものをずっと眺めていられるときと同じように相手に注意が向いてしまう。
そんな感じで人と接すると、相手は自然と満たされて楽になれるものだ、と。
そういう主張だったようです。
これは僕も経験上、実感するところですし
それこそが何よりも難しいところでもあると感じます。
相手に関心を向ける重要性を説いているのは、
おそらくミルトン・エリクソンもそうだったように思うんです。
ただ彼は「好奇心」という言葉を使っていたみたいですが。
「好奇心」は大きく分けると、2通りです。
1つは「知らないことに関心が向く」こと。
もう1つは「奇妙なことに関心が向く」こと。
日本語で「好奇」というと、
(”普通”と比べて)変わっている、珍しいことを面白いと感じる
意味合いが強いように思います。
純粋に「知らないことを知りたい」という気持ちよりも、もう少し
「あれ?なんでだろう?おかしいな?不思議だな?」という感じ。
「奇妙なことに関心が向くこと」としての好奇心として
解釈されがちなのではないか、と感じます。
一方、ミルトン・エリクソンは多分
「知らないことに関心が向くこと」を好奇心と呼んでいたと思われます。
なぜならエリクソンの土台には、
口癖のように発せられていた「 I don't know 」にも表れるように
「知らない」というスタンスを重視していた様子がうかがえるからです。
目の前のクライアントのことを本当に知らない。
だから知ろうとできる。
それを「好奇心」と呼んだのではないか、という話です。
しかしながら「知らない」というスタンスを維持しながら
何かに関心を向けるのは難しいものだといえます。
「知らない」は「知っている」の反対として認識されやすく、
知っていることに結びつけながら情報を増やすのが一般的です。
「これは知っている。でも、こっちは知っていることと違う。
じゃあ、いったい何なんだ?」
といって知りたい気持ちが沸く流れです。
そうやって、知っていることと関連づけながら知ろうとするのが
知らないことを知ろうとするときの一般的な方法なわけです。
これは実のところ、「奇妙なことに関心が向く」に近いんです。
「(”普通”と比べて)変わっている、珍しいことを面白いと感じる」のは
自分の知っている”普通”と比べることに基づきます。
知っていることと対比するから
「あれ?なんでだろう?おかしいな?不思議だな?」と感じる。
知っていることがあるから生まれる好奇心なんです。
ですから「知らないことに関心が向くこと」としての好奇心のつもりでも、
知っていることと対比で「知らない」という認識を使っている限り、
その実態は「奇妙なことに関心が向く」のほうに近いことになります。
なぜこの性質を強調するのかといえば、
「知っている」との対比としての「知らない」は、結局
自分の都合で相手に関心を向けることになるからです。
「知っている」つもりのことには関心が向かないし、
「知らないから関心が向く」という条件つきの関心になります。
無条件の関心ではない、ということです。
一方、エリクソンがしていたと想像できる
「何も知らない」のスタンスからすると、
そこから生まれる好奇心は、全てのものごとに対して
無条件に向けられる純粋な関心になりえます。
相手に向けられる関心が無条件のものになるかどうかは
・「何も知らない」ことをベースにして好奇心が沸くのか
それとも
・「知っている」こととの対比として「知らない」ことに好奇心が沸くのか
の違いで変わってくると考えられるんです。
「好奇心をもって関わる」という言葉の内容からすれば
どちらも好奇心に違いないわけですが、
それぞれの種類の好奇心が作り出す内面は大きく違うはずです。
「何も知らない」から生まれる好奇心には
相手へ無条件の関心を向けさせる効果があって、
その態度が相手の心を満たすことができると期待されます。
「知っている」との対比としての「知らない」から生まれる好奇心には
そこまでの効果は期待できません。
「知っている」の対比としての「知らない」は、
自分の興味のないことに関心が向かないのと同じように、
一部のものごとにしか関心を向けないといえます。
「知っている」の延長にしか関心が向かない。
結局、大部分には無関心なままです。
「何も知らない」ということを徹底的に実感できたとき
やっと純粋な関心が生まれ始めるのではないでしょうか。