2016年03月26日
出来るようになるために
たとえば「英語を話せる」ことの基準は
人によって随分と違うものです。
日本人の英語学習者がネイティブと比べれば
どこか見劣りする部分があるのは仕方のないことかもしれません。
出来るようになってくるほど、
今まで出来ていなかった部分に気づけるだけの着眼点も身につく。
いつまで経ってもネイティブには追いつけない気がするんでしょう。
一方、「私は英語をまったく話せません」という人であっても
実際には日本人なら相当な英語を知っています。
ゆっくり時間をかければ不自然でも文法どおりに文章を作れたり
単語さえ辞書で調べればコミュニケーションできることも多いはずです。
少なくともそのレベルは、アラビア語やスウェーデン語のように
文字通りまったく知らない言葉を「話せない」というのとは意味が違います。
何をもってして「出来る」と呼ぶかは
比較対象や判断基準の量によっても
かなり異なってくるようです。
出来ていないのに「出来ている」と思ってしまえば伸びません。
探せば多くの改善の余地が見つかって
そこをトレーニングすればもっと上達できる。
そういう場合でも「出来ている」つもりの状態からだと
出来ていない部分を探すのが難しくなってしまうみたいです。
内面的に見ても、自信があるから出来ていると思ってしまうようでいて、
実は、出来ていないことを謙虚に受け止める自信がない可能性もあります。
自信があるからこそ、出来ていないことを受け止め、
もっと出来るようにしていこうと思えてくることもあるでしょう。
反対に、出来ているのに「出来ていない」と思っても上達しにくい。
出来ているところを認めるから、それを定着させられるし、
出来るところ増やすために次の課題に集中できます。
出来ているところを見つけるから上達の喜びが感じられて
続けていくだけのヤル気も高まります。
内面的には、自信のなさが「まだまだだ」という視点を生み出すこともあれば
逆の場合もあるかもしれません。
限界を知ったり、さらなる高みを知ったりすれば
頑張った見返りが不十分に感じられてショックを受けることもあります。
最初から「出来ていない」と思っておけば
「せっかく頑張ったのに…」というショックは受けなくて済みます。
「出来ていない」と判断するのが謙虚なようでいて、実は
自信や期待の高さと関係していることもあります。
高い理想を見ているから「出来ていない」と感じるのだとしたら
その高い理想地点に辿り着ける可能性を認めてもいるわけです。
たとえば英語のネイティブと比較して「英語が話せない」と判断するのなら
ネイティブと同じようになれる可能性を否定はしていない、ということです。
最初から「ネイティブと同等にはなれない」と諦めていれば
そこと比べる発想が出ないのではないでしょうか。
さらにいえば、もっと出来る人と比較をするときに
その高みへ辿り着くまでの努力の量を考慮していない場合もあります。
出来るまでの道筋を踏まえることなく「出来ない」と言っているのだとしたら
自分の努力の量について見ていないのかもしれません。
出来ているところと、出来ていないところをニュートラルに見る。
目指す到達点として、辿り着けそうな範囲を設定する。
そこへ到達するまでに必要な努力を知る。
いずれも客観的に捉えられると
上達の効率も高くなるのではないかと思われます。
人によって随分と違うものです。
日本人の英語学習者がネイティブと比べれば
どこか見劣りする部分があるのは仕方のないことかもしれません。
出来るようになってくるほど、
今まで出来ていなかった部分に気づけるだけの着眼点も身につく。
いつまで経ってもネイティブには追いつけない気がするんでしょう。
一方、「私は英語をまったく話せません」という人であっても
実際には日本人なら相当な英語を知っています。
ゆっくり時間をかければ不自然でも文法どおりに文章を作れたり
単語さえ辞書で調べればコミュニケーションできることも多いはずです。
少なくともそのレベルは、アラビア語やスウェーデン語のように
文字通りまったく知らない言葉を「話せない」というのとは意味が違います。
何をもってして「出来る」と呼ぶかは
比較対象や判断基準の量によっても
かなり異なってくるようです。
出来ていないのに「出来ている」と思ってしまえば伸びません。
探せば多くの改善の余地が見つかって
そこをトレーニングすればもっと上達できる。
そういう場合でも「出来ている」つもりの状態からだと
出来ていない部分を探すのが難しくなってしまうみたいです。
内面的に見ても、自信があるから出来ていると思ってしまうようでいて、
実は、出来ていないことを謙虚に受け止める自信がない可能性もあります。
自信があるからこそ、出来ていないことを受け止め、
もっと出来るようにしていこうと思えてくることもあるでしょう。
反対に、出来ているのに「出来ていない」と思っても上達しにくい。
出来ているところを認めるから、それを定着させられるし、
出来るところ増やすために次の課題に集中できます。
出来ているところを見つけるから上達の喜びが感じられて
続けていくだけのヤル気も高まります。
内面的には、自信のなさが「まだまだだ」という視点を生み出すこともあれば
逆の場合もあるかもしれません。
限界を知ったり、さらなる高みを知ったりすれば
頑張った見返りが不十分に感じられてショックを受けることもあります。
最初から「出来ていない」と思っておけば
「せっかく頑張ったのに…」というショックは受けなくて済みます。
「出来ていない」と判断するのが謙虚なようでいて、実は
自信や期待の高さと関係していることもあります。
高い理想を見ているから「出来ていない」と感じるのだとしたら
その高い理想地点に辿り着ける可能性を認めてもいるわけです。
たとえば英語のネイティブと比較して「英語が話せない」と判断するのなら
ネイティブと同じようになれる可能性を否定はしていない、ということです。
最初から「ネイティブと同等にはなれない」と諦めていれば
そこと比べる発想が出ないのではないでしょうか。
さらにいえば、もっと出来る人と比較をするときに
その高みへ辿り着くまでの努力の量を考慮していない場合もあります。
出来るまでの道筋を踏まえることなく「出来ない」と言っているのだとしたら
自分の努力の量について見ていないのかもしれません。
出来ているところと、出来ていないところをニュートラルに見る。
目指す到達点として、辿り着けそうな範囲を設定する。
そこへ到達するまでに必要な努力を知る。
いずれも客観的に捉えられると
上達の効率も高くなるのではないかと思われます。