2016年04月07日
医者の不養生
研究者と実践者が違うのは、当然のことのようです。
以前に参加した英語音声学会の講演会では、
列席の大学教授の中に発音のキレイな人はほとんどいなくて
むしろカタカナ英語そのままのような人までもいたりしました。
先日会って話をしたお坊さんも
「仏教学者は経典の研究をしているのであって
経典の教えに沿って修行しているわけではない」
と言っていました。
研究は
外部から客観的に物事を眺めて分析する
ものであって、
その内容を自分に適用するとは限らないわけです。
むしろ外から見ているからこそ、主観的な印象を切り離して
誰もが納得できるような客観的な説明を組み立てられるとも言えそうです。
本を読み、文献を紐解き、人から話を聞き、多くの情報を集める…、
そうすれば「よく知っている」ことにはなるでしょうが、
「よく分かっている」こととは違うわけです。
そしてまた、援助者と実践者もイコールではありません。
「援助」には様々な形がありますが、どのような形での援助であれ
その援助をする人自身が、援助内容を実践しているかというと
必ずしもそうではないように見受けられます。
分かりやすいのは、いわゆる「医者の不養生」でしょう。
医療分野においても、医学の研究者もいれば、治療に当たる医師もいます。
しかしながら、自らの身体から病気をなくすために
医療の成果を実践している人は滅多にいないみたいです。
カウンセリングやセラピーについても同様です。
自分の悩みや、自らの心の奥深くの問題を扱おうとする人は多くありません。
「教える」という形でも、「教えられる」ということと
「本人ができる」ということは直結しないようです。
語学の先生なんかは分かりやすい例でしょう。
英語の先生をしている人よりも英語が達者な別職種の人だって沢山います。
また、身体のケアをする人たちが姿勢について話しているのをよく聞きますが
だからといって、その人自身の姿勢や動作が良いかというとそうでもない。
近所のストレッチ専門店でチラシを配っているスタッフは
のきなみ姿勢がボロボロです。
看板に描かれている「良い姿勢、悪い姿勢」の絵の近くで
堂々と「悪い姿勢」ソックリの立ち方をしている援助者がチラシを配っています。
「援助は他者に対してのものだから、自分の実践とは関係がない」
という考え方もあるのかもしれませんが、一方では
「自分が誰よりも実践しているから他者についても分かる」
という考え方もあると思います。
実際、東洋の思想に基づいたものだと
援助と実践がセットになっていることもあるみたいですし。
研究にせよ、援助にせよ、対象を自分の外側に捉えている時点で
自分の内側で主観的に取り組もうとする心がけは生まれにくいのかもしれません。
「主観的な印象は自分のものであって、他人のもではない」という見方もありますが、
他者の体験を他者目線の主観で捉えることもあるわけです。
自分の主観は一人称。
客観的な分析は三人称。
それに加えて、相手目線の主観としての二人称があるだろう、と。
何かを理解したり援助したりする上では
三人称だけでなく、二人称も役に立つはずです。
相手目線の主観という二人称の視点を身につけるためには、その土台として
自分目線の主観という一人称の視点からの体験が必要ではないでしょうか。
自ら実践することには、そういう意味もあると思います。
以前に参加した英語音声学会の講演会では、
列席の大学教授の中に発音のキレイな人はほとんどいなくて
むしろカタカナ英語そのままのような人までもいたりしました。
先日会って話をしたお坊さんも
「仏教学者は経典の研究をしているのであって
経典の教えに沿って修行しているわけではない」
と言っていました。
研究は
外部から客観的に物事を眺めて分析する
ものであって、
その内容を自分に適用するとは限らないわけです。
むしろ外から見ているからこそ、主観的な印象を切り離して
誰もが納得できるような客観的な説明を組み立てられるとも言えそうです。
本を読み、文献を紐解き、人から話を聞き、多くの情報を集める…、
そうすれば「よく知っている」ことにはなるでしょうが、
「よく分かっている」こととは違うわけです。
そしてまた、援助者と実践者もイコールではありません。
「援助」には様々な形がありますが、どのような形での援助であれ
その援助をする人自身が、援助内容を実践しているかというと
必ずしもそうではないように見受けられます。
分かりやすいのは、いわゆる「医者の不養生」でしょう。
医療分野においても、医学の研究者もいれば、治療に当たる医師もいます。
しかしながら、自らの身体から病気をなくすために
医療の成果を実践している人は滅多にいないみたいです。
カウンセリングやセラピーについても同様です。
自分の悩みや、自らの心の奥深くの問題を扱おうとする人は多くありません。
「教える」という形でも、「教えられる」ということと
「本人ができる」ということは直結しないようです。
語学の先生なんかは分かりやすい例でしょう。
英語の先生をしている人よりも英語が達者な別職種の人だって沢山います。
また、身体のケアをする人たちが姿勢について話しているのをよく聞きますが
だからといって、その人自身の姿勢や動作が良いかというとそうでもない。
近所のストレッチ専門店でチラシを配っているスタッフは
のきなみ姿勢がボロボロです。
看板に描かれている「良い姿勢、悪い姿勢」の絵の近くで
堂々と「悪い姿勢」ソックリの立ち方をしている援助者がチラシを配っています。
「援助は他者に対してのものだから、自分の実践とは関係がない」
という考え方もあるのかもしれませんが、一方では
「自分が誰よりも実践しているから他者についても分かる」
という考え方もあると思います。
実際、東洋の思想に基づいたものだと
援助と実践がセットになっていることもあるみたいですし。
研究にせよ、援助にせよ、対象を自分の外側に捉えている時点で
自分の内側で主観的に取り組もうとする心がけは生まれにくいのかもしれません。
「主観的な印象は自分のものであって、他人のもではない」という見方もありますが、
他者の体験を他者目線の主観で捉えることもあるわけです。
自分の主観は一人称。
客観的な分析は三人称。
それに加えて、相手目線の主観としての二人称があるだろう、と。
何かを理解したり援助したりする上では
三人称だけでなく、二人称も役に立つはずです。
相手目線の主観という二人称の視点を身につけるためには、その土台として
自分目線の主観という一人称の視点からの体験が必要ではないでしょうか。
自ら実践することには、そういう意味もあると思います。
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この記事へのコメント
1. Posted by eipie 2016年04月10日 22:54
優れた理解は時空間に囚われず情報を得ることができる。さらに賢さは僅かな確率に対し実践することで得る。そこに存在確率の自発的対称性の破れがうまれる。これは進化ではないでしょうか。
閃きが先で理解はあとからついてくるものでしょ。
閃きが先で理解はあとからついてくるものでしょ。
2. Posted by 原田 2016年04月11日 13:31
おお、なんだか凄く高度な話ですね。僕には理解できた気がしていません。
「閃きが先で理解があと」、おっしゃる通りだと思います。言葉の定義が同じかは分かりませんが、認知の観点からしても、パターン抽出が先にあって、それに気づいて、概念的な説明(=理解)がなされるという流れはあるような気がします。
「閃きが先で理解があと」、おっしゃる通りだと思います。言葉の定義が同じかは分かりませんが、認知の観点からしても、パターン抽出が先にあって、それに気づいて、概念的な説明(=理解)がなされるという流れはあるような気がします。