2016年10月20日
勉強は何のためにするのか?
何をもって「勉強」と呼ぶのか僕には分かりませんが
多くの勉強の実態は「トレーニング」ではないでしょうか。
繰り返しの練習によって慣れる。
同じパターンへスムーズに対処できるようにする。
例えば、高校か大学初歩までの数学は練習問題が重要なようです。
受験勉強として塾でやっていたことは、今振り返ればトレーニングでした。
そしてトレーニングの量が減ってから、僕の数学は停滞しました。
トレーニングを続けていたら数学寄りの学問もできたかもしれません。
語学もそうです。
仕組みを知ったら、あとはパターン学習です。
聞きとりも読解も、パターン認識に依存する部分が大きいと考えられます。
ボキャブラリーでは積極的にすると暗記パターン認識の効率が上がりますが、
覚えた語句を無自覚的に使いこなせるようになるには慣れが必要です。
繰り返しのインプットとアウトプットで定着します。
頻度が下がれば忘れてしまいます。
僕の知り合いのイギリス人は、学校の歴史の授業でも
日本でよくあるような機械的な暗記はなかったと言っていました。
イギリスの歴史資料を渡されて、テーマごとにまとめ上げ
歴史的に記録されている”事実”を調べるプロジェクトばかりだったそうです。
歴史学者になるためのトレーニングのようなことが歴史の授業の大半で
日本でやるような年代と事柄の暗記はなかった、とのこと。
資料の読み方、まとめ方を訓練していたわけです。
一方、僕がアメリカの大学のアメリカ史を受けたときは、どちらかというと
クリティカル・リーディングのようなトレーニングだと感じました。
教科書をベースに出来事の流れを追いかけていくわけですが、
参考資料として色々な角度から書かれた見解を読まされました。
「いつ、どこで、誰が関わって、何が起きた」という出来事を学ぶだけでなく、
「どういう背景で、何が要因となって、関係者のどんな思惑によって起きたのか」
を議論するようなことが多かった印象があります。
多くの要因が絡み合う中から、因果関係を分析して
重要度の高い要因を見つけていくような練習だといえそうです。
そういうのと比べると、日本の小・中学校(場合によっては大学ぐらいまで?)では
与えられた情報をそのまま覚えるだけの科目も多かった気がします。
数学については小学校の算数の頃からトレーニング中心でしょうが、
中学ぐらいまでの理科は暗記の度合いのほうが高かった記憶があります。
高校で物理と化学が表れて、数学的なトレーニングが増えました。
社会科の類は、テストのために覚えるばっかりだった感じがします。
本当は社会科見学のようなプロジェクトワーク的なものもあったんでしょうが、
その比重が極端に低くて、ただの息抜きぐらいのイメージに留まっています。
国語も本質的には、読解や記述のためのトレーニング要素があるはずなのに
その部分は相当に曖昧なまま進んでいたように思います。
(むしろ何をやっていたかなんて覚えていないぐらいですが…)
僕の国語力は高校受験の時、入試の過去問をひたすら解いていて上がりました。
これに関してはトレーニングの側面が効果を発揮したのを強く実感しています。
文章から論理や気持ちの表現方法をパターン認識できるようになったんです。
社会のプロジェクトワークにしても、国語の授業にしても
そういうパターン認識の部分のトレーニングとして扱えば
もっと効果的なトレーニング方法がいろいろと思いつきます。
語学も日本の学校教育(特に中学校)ではトレーニングの側面が弱いので
言語として使えるようになるための効果は薄いようです。
幸い、僕の通っていた高校は独特の英語教育があって
読解に関してのみ、やたらとトレーニングを強制する仕組みがありました。
ひたすらリーディング。
ただし単語と文法は複雑過ぎない。
中学レベルからの飛躍があったので戸惑いましたが
多読とボキャブラリー増強の目的では役立ったようです。
学校の授業におけるトレーニングの重要性をひしひしと感じます。
だからこそ逆に、今フランス語を勉強していて
そのトレーニング効率が悪い先生に当たると不満を覚えてしまうんですが…。
そして学校教育に含まれるトレーニングの部分は、
高度な理解を可能にするための土台づくりのようです。
例えば英語の読解のトレーニングをすることによって
英語で論じられた説明を理解できるようになる。
数学のトレーニングを積むことで、数式を追いかけながら論理を理解できる。
古文のトレーニングが充分だったら、日本の古い文献を読んで理解できる。
説明の論理展開を追って納得できることが「分かる」という意味でしょう。
そして納得した法則や傾向を利用して
具体的な事例と照らし合わせながら確認する。
同じようなケースであれば、どんな展開になるかが予測できるわけです。
多くの学問は、そのように法則やパターンを探しだして、
その法則によって結果を予測できるようにするところが主目的です。
電気の配線だったら、法則を組み合わせて必要な回路や電力を計算する。
計算結果はあくまで予測ですから、実際に回路を組んでみたときに
予測通り問題なく事が運ぶかどうかをチェックする。
理論を元に予測をして、予測される通りになるか実験をする、と。
実験結果が予測通りなら理論の正しさが実証できるし、
大規模な設備を使って実社会に応用することもできる。
宇宙開発で人工衛星を飛ばしたり、
電波を使った通信を行ったり、
飛行機や車など交通手段の設計をしたり、
建物や橋などを安全に作ったり、
薬効を生み出す化学物質を合成したり、
経済の流れをもとに取引や政策を決めたり、
人の心の仕組みを想定して悩みを解決したり、
購買意欲の変化を予測して営業や宣伝をしたり、
大衆の感情を動かす伝え方を工夫して小説や映画を生み出したり…。
いずれも「〜(した)ときには、…になる」という法則を見つけ、
その法則の確実性を検証し、応用して実社会に使われているといえます。
なんとなく法則に気づくだけだったら
学校教育的なトレーニングは、それほど必要がないのかもしれません。
その法則を説得力のある形で他人に説明する段階で
論理展開のルールと、情報伝達のための共通言語が必要になります。
自分の見つけた法則が正しいと言えるだけの説明の仕方がある。
その説明の仕方を身につけるのにトレーニングが必要なんです。
ルールと共通言語は、各分野の専門性によって異なります。
数学も化学式も英語も古文も、説明の手段だと言い換えられます。
そして説明の仕方をトレーニングによって身につけていると
その分野の情報を他人に伝えられます。
シェアできます。
一人の知恵を人類全体の財産として共有する。
そのために共通した説明の仕方が求められるわけです。
自分が見つけたものを他の誰かに伝えて役立ててもらうにしても、
他の誰かが見つけたものを自分で利用するにしても、
説明の仕方を理解している必要があります。
そのためにトレーニングが重要なんでしょう。
学校教育の過程では、昔の人が見つけた法則を知って
自分で応用してみるような部分も含まれています。
小学校の算数で習う基本的な計算は
大人になっても買い物ぐらいで役立つはずです。
地理も旅行などで役立つかもしれません。
家庭科は、先人の知恵として料理や裁縫を教わって
自分でもできるようにするわけですから、もっとも実用的な部類かもしれません。
しかし、学校教育の大部分はトレーニングのように思えます。
他の人と知恵を共有するための方法をトレーニングしている。
誰かの発見を応用したり、自分の発見を伝えたりするのに
共通のルールとして身につけておくべきものがある。
外国語が話せるほうが情報伝達し合える相手が増えるように、
数学でも古文でも物理でも化学でも
トレーニングをするほどに知恵を共有し合える範囲が広がるようです。
スポーツにしたって、過去にトレーニングを充分にした経験があるほど
新しい運動を身につけやすかったり、コツを指導しやすかったりする。
残念ながら、
こうした共有のためのトレーニングを活かすタイミングがやってくるのは、
学校の中であれば大学の後半になってから、
学校の外であれば仕事をするようになってから、
といったところではないでしょうか。
そのタイミングは、自分から
・「○○について知りたい」
・「△△について伝えたい」
と感じ始めたときのように思えます。
もちろん、それからトレーニングを再開しても充分なわけですが、
学校で過ごす時間は知恵を共有するためのトレーニングなんだと知っていれば
もっと身を入れて取り組んでいたものもあったのではないかと感じられます。
僕にとってのそれは数学です。
いわゆる情報化社会となって情報共有がしやすくなってきた現代だからこそ
「知恵の共有のためのトレーニング」としての教育の側面を
もう少し強調しても良いような気がします。
多くの勉強の実態は「トレーニング」ではないでしょうか。
繰り返しの練習によって慣れる。
同じパターンへスムーズに対処できるようにする。
例えば、高校か大学初歩までの数学は練習問題が重要なようです。
受験勉強として塾でやっていたことは、今振り返ればトレーニングでした。
そしてトレーニングの量が減ってから、僕の数学は停滞しました。
トレーニングを続けていたら数学寄りの学問もできたかもしれません。
語学もそうです。
仕組みを知ったら、あとはパターン学習です。
聞きとりも読解も、パターン認識に依存する部分が大きいと考えられます。
ボキャブラリーでは積極的にすると暗記パターン認識の効率が上がりますが、
覚えた語句を無自覚的に使いこなせるようになるには慣れが必要です。
繰り返しのインプットとアウトプットで定着します。
頻度が下がれば忘れてしまいます。
僕の知り合いのイギリス人は、学校の歴史の授業でも
日本でよくあるような機械的な暗記はなかったと言っていました。
イギリスの歴史資料を渡されて、テーマごとにまとめ上げ
歴史的に記録されている”事実”を調べるプロジェクトばかりだったそうです。
歴史学者になるためのトレーニングのようなことが歴史の授業の大半で
日本でやるような年代と事柄の暗記はなかった、とのこと。
資料の読み方、まとめ方を訓練していたわけです。
一方、僕がアメリカの大学のアメリカ史を受けたときは、どちらかというと
クリティカル・リーディングのようなトレーニングだと感じました。
教科書をベースに出来事の流れを追いかけていくわけですが、
参考資料として色々な角度から書かれた見解を読まされました。
「いつ、どこで、誰が関わって、何が起きた」という出来事を学ぶだけでなく、
「どういう背景で、何が要因となって、関係者のどんな思惑によって起きたのか」
を議論するようなことが多かった印象があります。
多くの要因が絡み合う中から、因果関係を分析して
重要度の高い要因を見つけていくような練習だといえそうです。
そういうのと比べると、日本の小・中学校(場合によっては大学ぐらいまで?)では
与えられた情報をそのまま覚えるだけの科目も多かった気がします。
数学については小学校の算数の頃からトレーニング中心でしょうが、
中学ぐらいまでの理科は暗記の度合いのほうが高かった記憶があります。
高校で物理と化学が表れて、数学的なトレーニングが増えました。
社会科の類は、テストのために覚えるばっかりだった感じがします。
本当は社会科見学のようなプロジェクトワーク的なものもあったんでしょうが、
その比重が極端に低くて、ただの息抜きぐらいのイメージに留まっています。
国語も本質的には、読解や記述のためのトレーニング要素があるはずなのに
その部分は相当に曖昧なまま進んでいたように思います。
(むしろ何をやっていたかなんて覚えていないぐらいですが…)
僕の国語力は高校受験の時、入試の過去問をひたすら解いていて上がりました。
これに関してはトレーニングの側面が効果を発揮したのを強く実感しています。
文章から論理や気持ちの表現方法をパターン認識できるようになったんです。
社会のプロジェクトワークにしても、国語の授業にしても
そういうパターン認識の部分のトレーニングとして扱えば
もっと効果的なトレーニング方法がいろいろと思いつきます。
語学も日本の学校教育(特に中学校)ではトレーニングの側面が弱いので
言語として使えるようになるための効果は薄いようです。
幸い、僕の通っていた高校は独特の英語教育があって
読解に関してのみ、やたらとトレーニングを強制する仕組みがありました。
ひたすらリーディング。
ただし単語と文法は複雑過ぎない。
中学レベルからの飛躍があったので戸惑いましたが
多読とボキャブラリー増強の目的では役立ったようです。
学校の授業におけるトレーニングの重要性をひしひしと感じます。
だからこそ逆に、今フランス語を勉強していて
そのトレーニング効率が悪い先生に当たると不満を覚えてしまうんですが…。
そして学校教育に含まれるトレーニングの部分は、
高度な理解を可能にするための土台づくりのようです。
例えば英語の読解のトレーニングをすることによって
英語で論じられた説明を理解できるようになる。
数学のトレーニングを積むことで、数式を追いかけながら論理を理解できる。
古文のトレーニングが充分だったら、日本の古い文献を読んで理解できる。
説明の論理展開を追って納得できることが「分かる」という意味でしょう。
そして納得した法則や傾向を利用して
具体的な事例と照らし合わせながら確認する。
同じようなケースであれば、どんな展開になるかが予測できるわけです。
多くの学問は、そのように法則やパターンを探しだして、
その法則によって結果を予測できるようにするところが主目的です。
電気の配線だったら、法則を組み合わせて必要な回路や電力を計算する。
計算結果はあくまで予測ですから、実際に回路を組んでみたときに
予測通り問題なく事が運ぶかどうかをチェックする。
理論を元に予測をして、予測される通りになるか実験をする、と。
実験結果が予測通りなら理論の正しさが実証できるし、
大規模な設備を使って実社会に応用することもできる。
宇宙開発で人工衛星を飛ばしたり、
電波を使った通信を行ったり、
飛行機や車など交通手段の設計をしたり、
建物や橋などを安全に作ったり、
薬効を生み出す化学物質を合成したり、
経済の流れをもとに取引や政策を決めたり、
人の心の仕組みを想定して悩みを解決したり、
購買意欲の変化を予測して営業や宣伝をしたり、
大衆の感情を動かす伝え方を工夫して小説や映画を生み出したり…。
いずれも「〜(した)ときには、…になる」という法則を見つけ、
その法則の確実性を検証し、応用して実社会に使われているといえます。
なんとなく法則に気づくだけだったら
学校教育的なトレーニングは、それほど必要がないのかもしれません。
その法則を説得力のある形で他人に説明する段階で
論理展開のルールと、情報伝達のための共通言語が必要になります。
自分の見つけた法則が正しいと言えるだけの説明の仕方がある。
その説明の仕方を身につけるのにトレーニングが必要なんです。
ルールと共通言語は、各分野の専門性によって異なります。
数学も化学式も英語も古文も、説明の手段だと言い換えられます。
そして説明の仕方をトレーニングによって身につけていると
その分野の情報を他人に伝えられます。
シェアできます。
一人の知恵を人類全体の財産として共有する。
そのために共通した説明の仕方が求められるわけです。
自分が見つけたものを他の誰かに伝えて役立ててもらうにしても、
他の誰かが見つけたものを自分で利用するにしても、
説明の仕方を理解している必要があります。
そのためにトレーニングが重要なんでしょう。
学校教育の過程では、昔の人が見つけた法則を知って
自分で応用してみるような部分も含まれています。
小学校の算数で習う基本的な計算は
大人になっても買い物ぐらいで役立つはずです。
地理も旅行などで役立つかもしれません。
家庭科は、先人の知恵として料理や裁縫を教わって
自分でもできるようにするわけですから、もっとも実用的な部類かもしれません。
しかし、学校教育の大部分はトレーニングのように思えます。
他の人と知恵を共有するための方法をトレーニングしている。
誰かの発見を応用したり、自分の発見を伝えたりするのに
共通のルールとして身につけておくべきものがある。
外国語が話せるほうが情報伝達し合える相手が増えるように、
数学でも古文でも物理でも化学でも
トレーニングをするほどに知恵を共有し合える範囲が広がるようです。
スポーツにしたって、過去にトレーニングを充分にした経験があるほど
新しい運動を身につけやすかったり、コツを指導しやすかったりする。
残念ながら、
こうした共有のためのトレーニングを活かすタイミングがやってくるのは、
学校の中であれば大学の後半になってから、
学校の外であれば仕事をするようになってから、
といったところではないでしょうか。
そのタイミングは、自分から
・「○○について知りたい」
・「△△について伝えたい」
と感じ始めたときのように思えます。
もちろん、それからトレーニングを再開しても充分なわけですが、
学校で過ごす時間は知恵を共有するためのトレーニングなんだと知っていれば
もっと身を入れて取り組んでいたものもあったのではないかと感じられます。
僕にとってのそれは数学です。
いわゆる情報化社会となって情報共有がしやすくなってきた現代だからこそ
「知恵の共有のためのトレーニング」としての教育の側面を
もう少し強調しても良いような気がします。