2019年02月25日
日本語を勉強し直す
このところ、ビジネス的なお手伝いをする機会が増えていて
他の人の書いた文章を見ることも多くなってきました。
そのときに感じるのが、
意外と多くの人が日本語をいい加減に使っている
ということです。
文法的にも、話の展開としても、主題の表し方としても…。
とりわけ、修飾語の使い分けは
読みやすさと大きく関係するようです。
「どのフレーズが、どの単語を修飾しているか?」というのは
文章構造としては複数の解釈が可能なものなんです。
多くは、文脈を頼りにして、
読み手が「一番自然」な解釈を選んでくれます。
例えば、
大きな効果を出している悩みの解消法
というフレーズだとしたら、
「大きな」は「効果」を修飾していると判断されるでしょう。
可能性としては
「大きな(効果を出している悩みの解消法)」
のように
「大きな」が「解消法」にかかっている、とも読めます。
ただ「大きな解消法」という表現が不自然なので
「大きな効果」と繋がるほうが選択されます。
同様に「効果を出している」も
「解消法」とセットにするほうが意味的に自然です。
「効果を出している悩み」の「解消法」とするのは
「効果を出している悩み」って何だ?と感じられるはずです。
なので「効果を出している」ー「悩みの解消法」となって、
全体としては
「大きな効果 を出している」ー「悩みの解消法」
のような塊で捉えることになります。
ところが、
大きな影響力のあるマーケッターのための集客テクニック
だとしたら、
不自然ではない解釈の仕方が複数ありえてしまいます。
「大きな影響力のある 集客テクニック」とセットにすると
「マーケッターのための集客テクニック」のうち
特に「大きな影響力のあるもの」という意味になります。
一方、「大きな影響力のあるマーケッター のためのテクニック」
という切り方にすると、
「集客テクニック」のうち、特に
「大きな影響力のあるマーケッター」を対象にしたもの
と読み取れます。
複数の解釈が可能なんです。
あえて曖昧にする技術としても使えますが、
書き手の意図とは別の意味で伝わってしまうリスクもあります。
特に広告のように「たまたま目に止まったもの」だとすると
読む側には、それほど強い動機がありません。
読みながら解釈のパターンを複数探して
書かれている意味を理解しようと努力する…というのは
読み手にとって負担をかける作業となります。
読みたい理由が固まっていない段階では
面倒臭さを感じさせてしまいかねません。
すると、 途中で読むのをやめてしまうかもしれない。
読み手が読解を頑張らなくても自然に理解できて、
誤解が起きづらく、しかも話の展開がスムーズ。
ただ話の流れを追いかけていくだけで、
1つの結論に導かれるような、
そんな文章を書くにはトレーニングが必要なようです。
残念ながら日本の国語教育では、
そちらの方向性は強調されません。
むしろ、複雑に修飾語が込み入った文章を読んで、
「自然な」解釈のパターンを身につけるように訓練する。
「皆んなと同じ」解釈ができるように練習するわけです。
これが国語の重要な役割の1つ。
もう1つは、話の展開がスムーズでない文章や
主張が明言されていない曖昧な文章を読んで、
筆者の言いたいことを汲み取るトレーニング。
「皆んなと同じように」
書き手の気持ちを察することができるようにする、と。
こうして「一般的」な読解力を身につけて、どんな人の話でも、
受け取る側の努力で理解できるようにしていくわけです。
読解力を求められる割合が高いように思われます。
だからといって全ての人が
国語を得意としていたわけではありません。
複雑な文章構造を解読するのが面倒臭い人もいるし、
意味を汲み取る段階で、自分なりに解釈してしまう人もいる。
だからこそ書く技術としての国語力が役立つはずです。
それは日本の国語教育では重視されないみたいですが。
僕は幸い、英語やフランス語のライティングを通して
誤解を減らす書き方のトレーニングをすることができました。
今も苦労します。
英語やフランス語のトレーニングのつもりだったのに
結果的に日本語の文章力が養われた印象があります。
必ずしも外国語を通してトレーニングしなくても構いませんが
日本語の文章力を向上させるには、
外国語をやるぐらいのつもりで
土台から見つめ直す必要があるのかもしれません。
かなり気合を入れないと取り組みたくもない作業でしょう。
ただし、誰もやらない分だけ、効果は大きいと思われます。
何かに行き詰まったことがあったら、
1つの打開策として国語力をターゲットにするのも
悪くないんじゃないでしょうか。
コミュニケーションを重視する人は多いのに
国語力を重視する人が少ないのは
なんだか皮肉な話のような気がします。
他の人の書いた文章を見ることも多くなってきました。
そのときに感じるのが、
意外と多くの人が日本語をいい加減に使っている
ということです。
文法的にも、話の展開としても、主題の表し方としても…。
とりわけ、修飾語の使い分けは
読みやすさと大きく関係するようです。
「どのフレーズが、どの単語を修飾しているか?」というのは
文章構造としては複数の解釈が可能なものなんです。
多くは、文脈を頼りにして、
読み手が「一番自然」な解釈を選んでくれます。
例えば、
大きな効果を出している悩みの解消法
というフレーズだとしたら、
「大きな」は「効果」を修飾していると判断されるでしょう。
可能性としては
「大きな(効果を出している悩みの解消法)」
のように
「大きな」が「解消法」にかかっている、とも読めます。
ただ「大きな解消法」という表現が不自然なので
「大きな効果」と繋がるほうが選択されます。
同様に「効果を出している」も
「解消法」とセットにするほうが意味的に自然です。
「効果を出している悩み」の「解消法」とするのは
「効果を出している悩み」って何だ?と感じられるはずです。
なので「効果を出している」ー「悩みの解消法」となって、
全体としては
「大きな効果 を出している」ー「悩みの解消法」
のような塊で捉えることになります。
ところが、
大きな影響力のあるマーケッターのための集客テクニック
だとしたら、
不自然ではない解釈の仕方が複数ありえてしまいます。
「大きな影響力のある 集客テクニック」とセットにすると
「マーケッターのための集客テクニック」のうち
特に「大きな影響力のあるもの」という意味になります。
一方、「大きな影響力のあるマーケッター のためのテクニック」
という切り方にすると、
「集客テクニック」のうち、特に
「大きな影響力のあるマーケッター」を対象にしたもの
と読み取れます。
複数の解釈が可能なんです。
あえて曖昧にする技術としても使えますが、
書き手の意図とは別の意味で伝わってしまうリスクもあります。
特に広告のように「たまたま目に止まったもの」だとすると
読む側には、それほど強い動機がありません。
読みながら解釈のパターンを複数探して
書かれている意味を理解しようと努力する…というのは
読み手にとって負担をかける作業となります。
読みたい理由が固まっていない段階では
面倒臭さを感じさせてしまいかねません。
すると、 途中で読むのをやめてしまうかもしれない。
読み手が読解を頑張らなくても自然に理解できて、
誤解が起きづらく、しかも話の展開がスムーズ。
ただ話の流れを追いかけていくだけで、
1つの結論に導かれるような、
そんな文章を書くにはトレーニングが必要なようです。
残念ながら日本の国語教育では、
そちらの方向性は強調されません。
むしろ、複雑に修飾語が込み入った文章を読んで、
「自然な」解釈のパターンを身につけるように訓練する。
「皆んなと同じ」解釈ができるように練習するわけです。
これが国語の重要な役割の1つ。
もう1つは、話の展開がスムーズでない文章や
主張が明言されていない曖昧な文章を読んで、
筆者の言いたいことを汲み取るトレーニング。
「皆んなと同じように」
書き手の気持ちを察することができるようにする、と。
こうして「一般的」な読解力を身につけて、どんな人の話でも、
受け取る側の努力で理解できるようにしていくわけです。
読解力を求められる割合が高いように思われます。
だからといって全ての人が
国語を得意としていたわけではありません。
複雑な文章構造を解読するのが面倒臭い人もいるし、
意味を汲み取る段階で、自分なりに解釈してしまう人もいる。
だからこそ書く技術としての国語力が役立つはずです。
それは日本の国語教育では重視されないみたいですが。
僕は幸い、英語やフランス語のライティングを通して
誤解を減らす書き方のトレーニングをすることができました。
今も苦労します。
英語やフランス語のトレーニングのつもりだったのに
結果的に日本語の文章力が養われた印象があります。
必ずしも外国語を通してトレーニングしなくても構いませんが
日本語の文章力を向上させるには、
外国語をやるぐらいのつもりで
土台から見つめ直す必要があるのかもしれません。
かなり気合を入れないと取り組みたくもない作業でしょう。
ただし、誰もやらない分だけ、効果は大きいと思われます。
何かに行き詰まったことがあったら、
1つの打開策として国語力をターゲットにするのも
悪くないんじゃないでしょうか。
コミュニケーションを重視する人は多いのに
国語力を重視する人が少ないのは
なんだか皮肉な話のような気がします。