NLP
2020年02月15日
ようやく
随分と久しぶりにブログにログインしました。
一か月以上も更新しなかったのは初めての経験です。
やっと少しだけ、時間的にも頭にも余裕が出てきた感じで
とりたてて何かを書きたいわけではないものの
こうしてキーボードを打ち始めました。
ブログを頻繁に更新していた時期は
自分でも一番勉強していた頃というか、日々いろいろなことを発見して、
その頭の整理をしていたんだと思います。
最近はもう、そういうことが滅多にありません。
何か面白い発見があるわけではない感じ。
世情に対して自分の意見が出てくることも以前のほうが多かったものです。
「何かの出来事が、自分にとって意味のあることとして印象に残る」
という経験が少なくなってきた気がします。
そうやって振り返ると少し寂しいような気もしてきますが、
日々はそのまま振り返ることなく流れていきますから
その寂しささえも感じることがないんでしょう。
良く言えば安定しているし、
悪く言えば心が動かされないし…と。
とはいえ、こうして書き始めてみて
この一カ月ぐらいの間に何があったかと思い返してみると
それなりに書くネタはありそうな気もしてきます。
にもかかわらずブログを放置していたのは
やはり時間的な余裕の部分の関係と、何よりも
「書く」という行為への心理的ハードルがあったように感じます。
端的にいうと「書く」行為を人のためにやっていたんです。
ホームページとか広告とか、そういった内容。
自分のアウトプットではなく、誰かの考えを整理して書きまとめる…
といった作業が増えてくると、書く作業そのものの時間が増えて
その行為自体に頭の中が占有される比率が高まってきます。
頭の中に、他のことを探索するスペースがないような状態でした。
その一方で、無理やり自分の経験や考えを書く必要があったのは
フランス語の自習課題としてのライティング作業。
これについては月に2回程度、スピーキング中心のレッスンのために
A4一枚程度の内容を書いて、それについて話すトレーニングをしています。
近頃は多少、フランス語の発話にも慣れてきたので
書いて準備をしていなくてもフリートーク的に話せそうな気はします。
それでも語学力を向上させるのにライティングは非常に効果的で
書いた内容は話しやすくなる経験が多いですから
アウトプットのトレーニングとして書くことは続けるつもりなんです。
ただし…。
作業に時間がかかります。
書いたものをネイティブの先生にチェックしてもらうことも考えると
無駄に長いものにはできません。
また、そのフランス人の先生は、そもそも文章力が高い人のようで
学生時代も同級生から浮いてしまうぐらいに
ライティング課題を楽しみつつ好成績を収めていたそうです。
そんな先生にチェックしてもらう兼ね合いもあって
あまりに論理構成が適当だと、フランス語以前に修正が増えてしまいます。
かなり入念に話の構成を練って、説明の順番や情報量の調整も必要です。
やみくもに書いて長くなってしまったらA4一枚に収まらないし、
途中で無理やりA4一枚の量に調整したら内容がおろそかになる。
なので内容を大まかに考えて、段落構成を事前に想定して
それから書き始めることになります。
書きながらも情報量を考慮して、
さらに読んでわかりやすいように工夫して、
A4一枚で最終的に話がまとまるように展開させて…、
最後に量の再調整をするために見直しと修正を加える。
これをやると書き始めるまでにも時間がかかりますし、
書き始めてからも2,3時間はかかってしまいます。
時間的にも頭の作業としても、意外と負荷が大きいんです。
仕事関係のお手伝いで「書く」作業の比率が上がっていたところに、
フランス語のライティングのトレーニングとして
自分ごとと無理やり絡めながらネタを考えないといけないときがある…。
そうしていると、いくら気軽に日本語で書けるブログでも
「何を書こうかなぁ」と考え始めると、
なかなかネタが思いつかなくなってしまうんでしょう。
最近になってやっと、仕事絡みでの書く作業が下がってきて
自分の体験に意識を向ける余裕が出てきたようです。
ちなみに今は、名古屋のホテルです。
自宅のパソコンではないのも、書く行為への余裕を
高めてくれるのかもしれません。
二週間ぐらい前にも大阪のホテルに滞在していたとき
ブログを書いてみようかと思ったところもあったんですが、
その日はやっぱり、手伝いで整理しないといけない報告物があって
そっちを書きまとめるのに時間が取られてしまいました。
今日は本当に久しぶりの頭の使い方をしています。
こういう作業も始めてしまえば、それなりにネタが出てくるものですね。
いざとなればフランス語のライティング内容を翻訳しても良いでしょうし。
すごく基本的なNLPの話とかをしてみるのも良いかもしれません。
僕がNLPの講座で担当する内容も限られていますから
どこかでアウトプットしておくのも悪くない気がします。
あとは自宅のパソコンに向かう気力があるかどうか、ですが。
また少しブログを再開してみようと思っています。
一か月以上も更新しなかったのは初めての経験です。
やっと少しだけ、時間的にも頭にも余裕が出てきた感じで
とりたてて何かを書きたいわけではないものの
こうしてキーボードを打ち始めました。
ブログを頻繁に更新していた時期は
自分でも一番勉強していた頃というか、日々いろいろなことを発見して、
その頭の整理をしていたんだと思います。
最近はもう、そういうことが滅多にありません。
何か面白い発見があるわけではない感じ。
世情に対して自分の意見が出てくることも以前のほうが多かったものです。
「何かの出来事が、自分にとって意味のあることとして印象に残る」
という経験が少なくなってきた気がします。
そうやって振り返ると少し寂しいような気もしてきますが、
日々はそのまま振り返ることなく流れていきますから
その寂しささえも感じることがないんでしょう。
良く言えば安定しているし、
悪く言えば心が動かされないし…と。
とはいえ、こうして書き始めてみて
この一カ月ぐらいの間に何があったかと思い返してみると
それなりに書くネタはありそうな気もしてきます。
にもかかわらずブログを放置していたのは
やはり時間的な余裕の部分の関係と、何よりも
「書く」という行為への心理的ハードルがあったように感じます。
端的にいうと「書く」行為を人のためにやっていたんです。
ホームページとか広告とか、そういった内容。
自分のアウトプットではなく、誰かの考えを整理して書きまとめる…
といった作業が増えてくると、書く作業そのものの時間が増えて
その行為自体に頭の中が占有される比率が高まってきます。
頭の中に、他のことを探索するスペースがないような状態でした。
その一方で、無理やり自分の経験や考えを書く必要があったのは
フランス語の自習課題としてのライティング作業。
これについては月に2回程度、スピーキング中心のレッスンのために
A4一枚程度の内容を書いて、それについて話すトレーニングをしています。
近頃は多少、フランス語の発話にも慣れてきたので
書いて準備をしていなくてもフリートーク的に話せそうな気はします。
それでも語学力を向上させるのにライティングは非常に効果的で
書いた内容は話しやすくなる経験が多いですから
アウトプットのトレーニングとして書くことは続けるつもりなんです。
ただし…。
作業に時間がかかります。
書いたものをネイティブの先生にチェックしてもらうことも考えると
無駄に長いものにはできません。
また、そのフランス人の先生は、そもそも文章力が高い人のようで
学生時代も同級生から浮いてしまうぐらいに
ライティング課題を楽しみつつ好成績を収めていたそうです。
そんな先生にチェックしてもらう兼ね合いもあって
あまりに論理構成が適当だと、フランス語以前に修正が増えてしまいます。
かなり入念に話の構成を練って、説明の順番や情報量の調整も必要です。
やみくもに書いて長くなってしまったらA4一枚に収まらないし、
途中で無理やりA4一枚の量に調整したら内容がおろそかになる。
なので内容を大まかに考えて、段落構成を事前に想定して
それから書き始めることになります。
書きながらも情報量を考慮して、
さらに読んでわかりやすいように工夫して、
A4一枚で最終的に話がまとまるように展開させて…、
最後に量の再調整をするために見直しと修正を加える。
これをやると書き始めるまでにも時間がかかりますし、
書き始めてからも2,3時間はかかってしまいます。
時間的にも頭の作業としても、意外と負荷が大きいんです。
仕事関係のお手伝いで「書く」作業の比率が上がっていたところに、
フランス語のライティングのトレーニングとして
自分ごとと無理やり絡めながらネタを考えないといけないときがある…。
そうしていると、いくら気軽に日本語で書けるブログでも
「何を書こうかなぁ」と考え始めると、
なかなかネタが思いつかなくなってしまうんでしょう。
最近になってやっと、仕事絡みでの書く作業が下がってきて
自分の体験に意識を向ける余裕が出てきたようです。
ちなみに今は、名古屋のホテルです。
自宅のパソコンではないのも、書く行為への余裕を
高めてくれるのかもしれません。
二週間ぐらい前にも大阪のホテルに滞在していたとき
ブログを書いてみようかと思ったところもあったんですが、
その日はやっぱり、手伝いで整理しないといけない報告物があって
そっちを書きまとめるのに時間が取られてしまいました。
今日は本当に久しぶりの頭の使い方をしています。
こういう作業も始めてしまえば、それなりにネタが出てくるものですね。
いざとなればフランス語のライティング内容を翻訳しても良いでしょうし。
すごく基本的なNLPの話とかをしてみるのも良いかもしれません。
僕がNLPの講座で担当する内容も限られていますから
どこかでアウトプットしておくのも悪くない気がします。
あとは自宅のパソコンに向かう気力があるかどうか、ですが。
また少しブログを再開してみようと思っています。
2019年12月07日
進化と進歩
世の中には、進化論の好きな人たちが結構いるようです。
とりわけアメリカなんかだと、
ダーウィンは科学の代表のように見られることがあるようで
そこから出てきた進化論も重視されやすいんでしょう。
聖書における生命の誕生と、生物学的な進化の歴史は別物ですから
宗教的な内容とは異なる話を全面的に押し出したダーウィンの進化論は
信仰とは別物の「科学」というものの象徴にもなりえるんだと思われます。
一方、この「進化」という考え方はなかなか曖昧で、
科学的な分野の中でも解釈が分かれているフシがあります。
ましてや日常的な言葉の使われ方となると、その意味は更に広がって
「進化」と「進歩」を混同したりもされます。
そのあたりのことが起こるのは、おそらく
「進化」を表面的な現象(「形質」と呼ばれる「遺伝子がもたらす結果」)
として見ていて、
「遺伝子の変異」として見ていないことに関係する印象です。
つまり、遺伝子はタンパク質を決めるだけであって
タンパク質の機能として説明できないことは「遺伝」ではない、という話。
仮に歴史的に親から子へと代々受け継がれてきたものであっても
それがタンパク質の機能として説明できないものだとすると、
遺伝子によって引き継がれたものではなくて、むしろ
経験を通した学習によって伝えられてきた情報だと考えられます。
例えば、猿から人間に進化して、文明を持ち始める前の時代、
小さな群れで狩猟採集の生活をしていたころを想像すると、
男性が外で狩りをして、女性が子育てをするといった姿が描かれます。
こういう生活パターンがあったから、例えば男性には
「外で狩りをしていた名残で、現代社会でも家庭への関心が女性より低い」
「獲物を取ってくる習慣から、現代でも何かを勝ち取ろうとする」
「獲物を持ち帰るところまでが目的だったため、
一度手に入れた獲物には関心がなくなる」
「獲物を手に入れる能力が高いほど必要とされていた名残で
他の男性よりも秀でようとする競争意識が強い」…
などの”ストーリー”が生まれます。
進化論では基本的に『適者生存』という考えを採用します。
生き延びるのに有利な性質が引き継がれていく、と。
上記の例は、たしかに狩猟採集の時代を考えると説得力がありそうです。
食料を手に入れるのが不安定だったことを想像すれば、
「外で効率的に狩りができる」能力は有利な性質として引き継がれ
その結果として上に書いたようなパターンが蓄積していきそうに思えます。
ですが仮に、歴史的にそういうことが引き継がれてきたとしても、
その内容は遺伝子に乗るタイプのものと考えるのは困難でしょう。
遺伝子はタンパク質を決めるだけですから、せめて
身体的な能力の違いとか、ホルモンの量の違いとかが限界のはずです。
もちろんホルモンの量で気質的なこと、つまり
起こりやすい生理反応の特徴は決まる可能性があるとはいえ、
それが行動パターンを直接的には決定しません。
行動は生まれた後に学習してパターン化されるものですから
文化的・習慣的に継承されて特徴として際立ってきたと考えるほうが妥当。
ちなみに、習慣として学習されて伝えられてきた情報は、
遺伝子(gene:ジーン)と対比させて
「meme:ミーム」とも呼ばれたりもします。
語源はギリシャ語で「模倣する」という単語にあるそうですが
英語でも「mimic」という単語が「マネする」という意味なので
おそらく同じような言葉のルーツなんでしょう。
とにかく、引き継がれる情報の全てが遺伝なわけではない、という話です。
つまり進化論は大雑把にいうと
・遺伝のように性質が引き継がれる
・特に生存に有利な性質が優先的に引き継がれる
・その結果、時間がたつにつれて徐々に変化していく
といった感じの捉え方だといって良さそうです。
遺伝子を分子レベルで見ていくスタンスからすると、先ほども言った通り
進化はタンパク質の性質の変化としてしか起こりえません。
そして遺伝子の突然変異は、一世代では確率的に
ほんの少ししか起きえませんから、
少しずつタンパク質の機能が変わって性質に変化が出る、
ぐらいの想定になります。
もともとあった性質が増えたり減ったりすることはあっても、
新たに性質が獲得されることは確率的に凄く低いわけです。
どちらかというと、今まであった機能が突然変異で失われる可能性のほうが高い。
ところが、進化論を表面的な性質として捉えていると
「進化の過程で生存に有利な性質が獲得されたから今に至る」
という発想になりやすいみたいです。
「獲得」とか「有利」とかいった捉え方は
『進化』を「向上」や「進歩」と結びついけやすいというか、
「人類の祖先が他の猿とは異なる”人間”へと進化した」といったような
優位性に似たニュアンスを含みやすい気がします。
例えば先日、こんな記事を読みました。
これによると
人類の祖先にあたる類人猿の一種は、1000万年前に
エタノール(お酒のアルコール分)を代謝できるようになり、
そのおかげで過剰に熟した果物に含まれるアルコール分を分解できたため
アルコールを代謝できない猿よりも生存に有利だった
という趣旨のことが書いてあります。
詳しく他の論文とかも調べてみると、科学的な発見としては、あくまで
エタノール代謝の最初の段階に関わる酵素の遺伝子ADH4の配列を
人間と近縁の猿の仲間で一通り調べ、その類似性から系統樹を作ると
1000万年前ごろに枝分かれする時点から1つの変異が共通で見つかり、
その変異がエタノール代謝の機能を大幅に高めている
ということのようです。
この変異を持たない他の種の猿は、
お酒のアルコール分を効率的に代謝できない。
つまり血中アルコール濃度が上がりやすい、と。
これは、そもそもアルコール代謝の酵素ADH4というのが既にあって、
その酵素のエタノール代謝の機能が上がった、という話なんです。
「獲得」というよりは「上がった」と。
エタノールというお酒のアルコール成分に対しては機能が上がっていますが、
逆に、ゲラニオールなどの他のアルコール分には代謝機能が下がるそうです。
研究者たちは、このエタノール代謝機能の上昇が有利だった、として
それが現代の人類にまで引き継がれているように解釈しています。
ただ、果たしてそうなのか、明確な根拠は見つけにくそうです。
もしかすると、
ゲラニオールが分解できなくなったことで
他の猿とは違う食料に依存しなければならなくなったけれど、
たまたま他の食料が手に入る環境にいたため生き残ってこれた
という話だって考えられます。
他の猿にとっては、この変異は食性を変えてしまって致命的だった…
だから他の猿には見られない変異になっている、という可能性です。
色々な考察のしようがあるはずなんです。
なので、どれが正しい説か、ということを言いたいわけではありません。
ポイントは、
「人間はアルコールを分解できる」という特殊な性質に目を向けると、
他の猿にはない”有利な”性質を”獲得した”
のような優位性の視点になりやすいのではないか?
といったところです。
解釈や考察の視点が”優位性”を土台にしたものになりやすそう。
もっとハッキリ言ってしまえば、人間には
「自分は他の存在と違って、こんなに価値がある」
という証明をしたがるところがあるんじゃないか?と。
何かしらの手段で
「自分は他の人より…」
「自分たちは他のグループより…」
「自分たちは他と違って…」
といった比較をしながら、
自己の存在意義を示そうとしがちな気がするんです。
先ほどの記事においても、途中の言い回しでは元論文に近く
「エタノール代謝がより効率的になった」と書いてありますが、
冒頭の文章には
African apes (who lived around 10 million years ago) evolved to metabolise ethanol
つまり「アフリカのエイプはエタノールを代謝するように進化した」とあります。
微妙なニュアンスの違いではあるものの、ともすると
「今までなかった機能が獲得された」かのような印象になりかねません。
この記事の著者はライターであって研究者自身ではありませんから
科学的な観点で厳密に区別しようとはしていないのでしょう。
だからこそ「進化」という部分に「獲得」の雰囲気や
優位性のようなものを関連付けていそうな印象を受けます。
何か特別な意味を探そうとしがちで、
「別に何の意味もない、ただの偶然」
というのはチョット残念な気がしてしまう。
そのあたりの根底に、そもそも
自己という存在を特別な意味のあるものと捉えたい気持ち
みたいなのがあるんじゃないかと感じます。
ニュートラルに物事を捉えるのは、相当に難しいことなんでしょう。
とりわけアメリカなんかだと、
ダーウィンは科学の代表のように見られることがあるようで
そこから出てきた進化論も重視されやすいんでしょう。
聖書における生命の誕生と、生物学的な進化の歴史は別物ですから
宗教的な内容とは異なる話を全面的に押し出したダーウィンの進化論は
信仰とは別物の「科学」というものの象徴にもなりえるんだと思われます。
一方、この「進化」という考え方はなかなか曖昧で、
科学的な分野の中でも解釈が分かれているフシがあります。
ましてや日常的な言葉の使われ方となると、その意味は更に広がって
「進化」と「進歩」を混同したりもされます。
そのあたりのことが起こるのは、おそらく
「進化」を表面的な現象(「形質」と呼ばれる「遺伝子がもたらす結果」)
として見ていて、
「遺伝子の変異」として見ていないことに関係する印象です。
つまり、遺伝子はタンパク質を決めるだけであって
タンパク質の機能として説明できないことは「遺伝」ではない、という話。
仮に歴史的に親から子へと代々受け継がれてきたものであっても
それがタンパク質の機能として説明できないものだとすると、
遺伝子によって引き継がれたものではなくて、むしろ
経験を通した学習によって伝えられてきた情報だと考えられます。
例えば、猿から人間に進化して、文明を持ち始める前の時代、
小さな群れで狩猟採集の生活をしていたころを想像すると、
男性が外で狩りをして、女性が子育てをするといった姿が描かれます。
こういう生活パターンがあったから、例えば男性には
「外で狩りをしていた名残で、現代社会でも家庭への関心が女性より低い」
「獲物を取ってくる習慣から、現代でも何かを勝ち取ろうとする」
「獲物を持ち帰るところまでが目的だったため、
一度手に入れた獲物には関心がなくなる」
「獲物を手に入れる能力が高いほど必要とされていた名残で
他の男性よりも秀でようとする競争意識が強い」…
などの”ストーリー”が生まれます。
進化論では基本的に『適者生存』という考えを採用します。
生き延びるのに有利な性質が引き継がれていく、と。
上記の例は、たしかに狩猟採集の時代を考えると説得力がありそうです。
食料を手に入れるのが不安定だったことを想像すれば、
「外で効率的に狩りができる」能力は有利な性質として引き継がれ
その結果として上に書いたようなパターンが蓄積していきそうに思えます。
ですが仮に、歴史的にそういうことが引き継がれてきたとしても、
その内容は遺伝子に乗るタイプのものと考えるのは困難でしょう。
遺伝子はタンパク質を決めるだけですから、せめて
身体的な能力の違いとか、ホルモンの量の違いとかが限界のはずです。
もちろんホルモンの量で気質的なこと、つまり
起こりやすい生理反応の特徴は決まる可能性があるとはいえ、
それが行動パターンを直接的には決定しません。
行動は生まれた後に学習してパターン化されるものですから
文化的・習慣的に継承されて特徴として際立ってきたと考えるほうが妥当。
ちなみに、習慣として学習されて伝えられてきた情報は、
遺伝子(gene:ジーン)と対比させて
「meme:ミーム」とも呼ばれたりもします。
語源はギリシャ語で「模倣する」という単語にあるそうですが
英語でも「mimic」という単語が「マネする」という意味なので
おそらく同じような言葉のルーツなんでしょう。
とにかく、引き継がれる情報の全てが遺伝なわけではない、という話です。
つまり進化論は大雑把にいうと
・遺伝のように性質が引き継がれる
・特に生存に有利な性質が優先的に引き継がれる
・その結果、時間がたつにつれて徐々に変化していく
といった感じの捉え方だといって良さそうです。
遺伝子を分子レベルで見ていくスタンスからすると、先ほども言った通り
進化はタンパク質の性質の変化としてしか起こりえません。
そして遺伝子の突然変異は、一世代では確率的に
ほんの少ししか起きえませんから、
少しずつタンパク質の機能が変わって性質に変化が出る、
ぐらいの想定になります。
もともとあった性質が増えたり減ったりすることはあっても、
新たに性質が獲得されることは確率的に凄く低いわけです。
どちらかというと、今まであった機能が突然変異で失われる可能性のほうが高い。
ところが、進化論を表面的な性質として捉えていると
「進化の過程で生存に有利な性質が獲得されたから今に至る」
という発想になりやすいみたいです。
「獲得」とか「有利」とかいった捉え方は
『進化』を「向上」や「進歩」と結びついけやすいというか、
「人類の祖先が他の猿とは異なる”人間”へと進化した」といったような
優位性に似たニュアンスを含みやすい気がします。
例えば先日、こんな記事を読みました。
これによると
人類の祖先にあたる類人猿の一種は、1000万年前に
エタノール(お酒のアルコール分)を代謝できるようになり、
そのおかげで過剰に熟した果物に含まれるアルコール分を分解できたため
アルコールを代謝できない猿よりも生存に有利だった
という趣旨のことが書いてあります。
詳しく他の論文とかも調べてみると、科学的な発見としては、あくまで
エタノール代謝の最初の段階に関わる酵素の遺伝子ADH4の配列を
人間と近縁の猿の仲間で一通り調べ、その類似性から系統樹を作ると
1000万年前ごろに枝分かれする時点から1つの変異が共通で見つかり、
その変異がエタノール代謝の機能を大幅に高めている
ということのようです。
この変異を持たない他の種の猿は、
お酒のアルコール分を効率的に代謝できない。
つまり血中アルコール濃度が上がりやすい、と。
これは、そもそもアルコール代謝の酵素ADH4というのが既にあって、
その酵素のエタノール代謝の機能が上がった、という話なんです。
「獲得」というよりは「上がった」と。
エタノールというお酒のアルコール成分に対しては機能が上がっていますが、
逆に、ゲラニオールなどの他のアルコール分には代謝機能が下がるそうです。
研究者たちは、このエタノール代謝機能の上昇が有利だった、として
それが現代の人類にまで引き継がれているように解釈しています。
ただ、果たしてそうなのか、明確な根拠は見つけにくそうです。
もしかすると、
ゲラニオールが分解できなくなったことで
他の猿とは違う食料に依存しなければならなくなったけれど、
たまたま他の食料が手に入る環境にいたため生き残ってこれた
という話だって考えられます。
他の猿にとっては、この変異は食性を変えてしまって致命的だった…
だから他の猿には見られない変異になっている、という可能性です。
色々な考察のしようがあるはずなんです。
なので、どれが正しい説か、ということを言いたいわけではありません。
ポイントは、
「人間はアルコールを分解できる」という特殊な性質に目を向けると、
他の猿にはない”有利な”性質を”獲得した”
のような優位性の視点になりやすいのではないか?
といったところです。
解釈や考察の視点が”優位性”を土台にしたものになりやすそう。
もっとハッキリ言ってしまえば、人間には
「自分は他の存在と違って、こんなに価値がある」
という証明をしたがるところがあるんじゃないか?と。
何かしらの手段で
「自分は他の人より…」
「自分たちは他のグループより…」
「自分たちは他と違って…」
といった比較をしながら、
自己の存在意義を示そうとしがちな気がするんです。
先ほどの記事においても、途中の言い回しでは元論文に近く
「エタノール代謝がより効率的になった」と書いてありますが、
冒頭の文章には
African apes (who lived around 10 million years ago) evolved to metabolise ethanol
つまり「アフリカのエイプはエタノールを代謝するように進化した」とあります。
微妙なニュアンスの違いではあるものの、ともすると
「今までなかった機能が獲得された」かのような印象になりかねません。
この記事の著者はライターであって研究者自身ではありませんから
科学的な観点で厳密に区別しようとはしていないのでしょう。
だからこそ「進化」という部分に「獲得」の雰囲気や
優位性のようなものを関連付けていそうな印象を受けます。
何か特別な意味を探そうとしがちで、
「別に何の意味もない、ただの偶然」
というのはチョット残念な気がしてしまう。
そのあたりの根底に、そもそも
自己という存在を特別な意味のあるものと捉えたい気持ち
みたいなのがあるんじゃないかと感じます。
ニュートラルに物事を捉えるのは、相当に難しいことなんでしょう。
2019年11月25日
脂が合いません
コレステロールが問題になって、食生活を変え
半年以上になりました。
そろそろ一度病院に行って、血液検査をするタイミングです。
今の食事パターンにしてから一ヶ月半ぐらいで
許容範囲までコレステロールが下がったので、
まあ、おそらく大丈夫だろうとは思うんですが。
とはいえ、栄養のせいか、元気がないというか
カスカスな感じが続きまして、
最近は意図的に油分を取るようにしています。
ナッツ類とか、青魚とかの油です。
その意味で、違ってきてはいるんです。
厳格ではない。
そこが気になるところですね。
ダメだとしたら、相当に減らさないといけませんから。
一方、この食生活に馴染んできたと感じるのは
豚や牛の脂、乳脂肪が重たい印象になってきたからです。
とりわけ、先日
お付き合いで鉄板焼きの店に行ったとき
翌朝に吐き気が出てしまいました。
牛肉の脂が多かった気はしないんですが、
ソースに使うバターが多かったんでしょう。
身体は生活スタイルに適応するものなのかもしれません。
僕の場合、動物脂肪の摂取が控え目な状態が標準になった、
といいますか。
反面、肌がカサカサする度合いは上がったような気もします。
栄養分としての脂質は必要そうな印象を受けます。
身体にいいとされる油を取ろうかと考え中です。
個人的にはクルミあたりを視野に入れているんですが、
素焼きで無塩のヤツばかりなんです。
塩味が欲しい。
ネットで探してみます。
なんだか、こういうのを考えていると
食品の影響を自分で調べたくなってきます。
主観的に体調をチェックするのと、
客観的な血液のデータを見るのと、両方で。
結局、僕が一番手に入れたいのは
血液検査のキットなんだろうと思います。
半年以上になりました。
そろそろ一度病院に行って、血液検査をするタイミングです。
今の食事パターンにしてから一ヶ月半ぐらいで
許容範囲までコレステロールが下がったので、
まあ、おそらく大丈夫だろうとは思うんですが。
とはいえ、栄養のせいか、元気がないというか
カスカスな感じが続きまして、
最近は意図的に油分を取るようにしています。
ナッツ類とか、青魚とかの油です。
その意味で、違ってきてはいるんです。
厳格ではない。
そこが気になるところですね。
ダメだとしたら、相当に減らさないといけませんから。
一方、この食生活に馴染んできたと感じるのは
豚や牛の脂、乳脂肪が重たい印象になってきたからです。
とりわけ、先日
お付き合いで鉄板焼きの店に行ったとき
翌朝に吐き気が出てしまいました。
牛肉の脂が多かった気はしないんですが、
ソースに使うバターが多かったんでしょう。
身体は生活スタイルに適応するものなのかもしれません。
僕の場合、動物脂肪の摂取が控え目な状態が標準になった、
といいますか。
反面、肌がカサカサする度合いは上がったような気もします。
栄養分としての脂質は必要そうな印象を受けます。
身体にいいとされる油を取ろうかと考え中です。
個人的にはクルミあたりを視野に入れているんですが、
素焼きで無塩のヤツばかりなんです。
塩味が欲しい。
ネットで探してみます。
なんだか、こういうのを考えていると
食品の影響を自分で調べたくなってきます。
主観的に体調をチェックするのと、
客観的な血液のデータを見るのと、両方で。
結局、僕が一番手に入れたいのは
血液検査のキットなんだろうと思います。
2019年11月19日
見覚えのある顔
最近は単調な日々が続いているのか、
自分の中で思うことが減っているのか、
ブログを書く内容が頭に上がってきません。
いつの間にか季節は冬に近づいているようです。
そんな中、先日、ジムで気になることがありました。
1,2か月ぐらい前には、なんだかやたらと夜の時間が混雑して
同じような新しい顔ぶれが集まることが多かったんですが、
最近はまた混雑が落ち着いて人が減ってきました。
夜が寒くなったせいで来なくなったのか、
その時間を避ける人が出始めたのか、
あるいは新しい顔ぶれは既に退会したのか…。
体験入会があるジムではなさそうですが
最初の月ぐらいは価格が安かったりはするみたいなので
出入りは激しいのかもしれません。
もしかすると単純に、本人の中でブームが去って
会費を払いながらジムに来ていないだけかもしれませんが。
で、1、2週間ぐらい前から、また新しい顔を見るようになりました。
その一人が大柄なアフリカ系アメリカ人なんです。
坊主頭で、ボブ・サップほどの体格ではないものの
アメフトとかやっていそうな感じの人です。
この人が、すごく見覚えあるんです。
多分、高確率で、英会話学校の先生だと思います。
僕が一番最初に通った英会話学校のベルリッツで
何回かレッスンを担当した先生じゃないか、と。
名前も朧気に記憶しています。
最寄り駅前のベルリッツでしたから
講師が近所に住んでいる場合、僕と街中で遭遇する可能性はあります。
ただし、僕がベルリッツに通っていたのは2010年の夏。
もう9年前です。
身長はおそらく、あれぐらいだった気がします。
一方、体格はあそこまで大きくはなかった…。
まぁ、10年近く経てば、肉がつくことはあるでしょう。
だからこそジムに来始めたのかもしれませんし。
顔は多分、あんな感じだったはず。
ところがチョット自信がないんです。
ハリウッド映画なんかだと、日本人役を
中国人やアジア系アメリカ人が演じていたりするじゃないですか。
アメリカ人からすると見慣れない東アジア人の顔は似て見えてしまう。
区別をつけられるほど見ている経験の量がないんです。
犬も同じです。
同じ犬種で名前を呼び分けられるのは見慣れている人に限られます。
同様に、僕からするとアフリカ系の顔立ちは見慣れていません。
しかも当時は特に、英語を勉強し始めたところで
海外出身の人と接する機会も少なかった時期です。
おんなじ感じに見えてしまっていたかもしれません。
たぶん、あの先生だとは思うんですが…。
イマイチ自信が持てないんです。
思い切って話しかけてしまう手もあるでしょう。
しかしながら、24時間営業のジムで話をしている人は少ない。
一人で黙々と運動するために来ている人たちの集まりです。
そもそも話しかけるのが適切かどうか不明です。
実際、ジムにいるその人は常にイヤホンをしています。
それに、その人が僕を覚えていない可能性もあります。
10年近く前の英会話学校の生徒の一人です。
講師をしていれば多くの日本人と出会いますから
一人ひとりを覚えていない可能性も高いでしょう。
そんなに回数が多かったわけでもありません。
回数が多くなかったのに、なぜ僕が覚えているのか?
こんなにも気になっているのか?
それは当時の僕にとって、その先生のレッスンが合わなかったからです。
ベルリッツは基本的に先生を選べません。
時間だけ予約して、誰が担当になるかは当日に分かる仕組みでした。
ただ、よほどの場合、どの先生を充てるかを
事務の人に工夫はしてもらえました。
それで僕は、唯一、その先生だけ
レッスンから外してもらうようにお願いしていたんです。
今なら対応できるでしょうが、本当に英会話学校に通い始めたばかりでは
あの先生のレッスンスタイルは効果が感じられませんでした。
しかもベルリッツの授業料は、なかなか高額ですから。
せっかくなら納得できる授業数を重ねたかったのを覚えています。
僕がその先生を拒んだことが当人に伝わっているかは知りません。
伝わっていなかったとしても、薄々は分かるでしょう。
担当するレッスン数が変わると思います。
仮に、そのジムに来ているアフリカ系アメリカ人の大柄な人が
ベルリッツで何度かレッスンを受けていた先生だったとして…。
お互いに仲良く話すほどの間柄ではありませんし、
向こうが覚えていない可能性もありますし、むしろ覚えていたとしたら
良くない印象で覚えている場合も十分にあり得ます。
実際に僕だって、当時のベルリッツで出会った先生のうち
顔と名前を認識できるのは多分、数人です。
十数人の講師の中から2,3人なんです。
そのうち2人は高頻度だった先生。
何度かしかレッスンを受けていないのに覚えているのは
「レッスンが合わなくて断ってしまった」という
ちょっとした気まずさからです。
ネガティブな感情が記憶を強めたんでしょう。
なので、お互いに覚えている可能性があるとしたら
それはあまり良い意味ではないんじゃないか、と。
だとするとジムにいるその人が、あのベルリッツの先生だったとして
話しかけるのは避けておいたほうが無難かもしれない。
そんなことを思いながら、彼の存在を意識しつつ運動しています。
自分の中で思うことが減っているのか、
ブログを書く内容が頭に上がってきません。
いつの間にか季節は冬に近づいているようです。
そんな中、先日、ジムで気になることがありました。
1,2か月ぐらい前には、なんだかやたらと夜の時間が混雑して
同じような新しい顔ぶれが集まることが多かったんですが、
最近はまた混雑が落ち着いて人が減ってきました。
夜が寒くなったせいで来なくなったのか、
その時間を避ける人が出始めたのか、
あるいは新しい顔ぶれは既に退会したのか…。
体験入会があるジムではなさそうですが
最初の月ぐらいは価格が安かったりはするみたいなので
出入りは激しいのかもしれません。
もしかすると単純に、本人の中でブームが去って
会費を払いながらジムに来ていないだけかもしれませんが。
で、1、2週間ぐらい前から、また新しい顔を見るようになりました。
その一人が大柄なアフリカ系アメリカ人なんです。
坊主頭で、ボブ・サップほどの体格ではないものの
アメフトとかやっていそうな感じの人です。
この人が、すごく見覚えあるんです。
多分、高確率で、英会話学校の先生だと思います。
僕が一番最初に通った英会話学校のベルリッツで
何回かレッスンを担当した先生じゃないか、と。
名前も朧気に記憶しています。
最寄り駅前のベルリッツでしたから
講師が近所に住んでいる場合、僕と街中で遭遇する可能性はあります。
ただし、僕がベルリッツに通っていたのは2010年の夏。
もう9年前です。
身長はおそらく、あれぐらいだった気がします。
一方、体格はあそこまで大きくはなかった…。
まぁ、10年近く経てば、肉がつくことはあるでしょう。
だからこそジムに来始めたのかもしれませんし。
顔は多分、あんな感じだったはず。
ところがチョット自信がないんです。
ハリウッド映画なんかだと、日本人役を
中国人やアジア系アメリカ人が演じていたりするじゃないですか。
アメリカ人からすると見慣れない東アジア人の顔は似て見えてしまう。
区別をつけられるほど見ている経験の量がないんです。
犬も同じです。
同じ犬種で名前を呼び分けられるのは見慣れている人に限られます。
同様に、僕からするとアフリカ系の顔立ちは見慣れていません。
しかも当時は特に、英語を勉強し始めたところで
海外出身の人と接する機会も少なかった時期です。
おんなじ感じに見えてしまっていたかもしれません。
たぶん、あの先生だとは思うんですが…。
イマイチ自信が持てないんです。
思い切って話しかけてしまう手もあるでしょう。
しかしながら、24時間営業のジムで話をしている人は少ない。
一人で黙々と運動するために来ている人たちの集まりです。
そもそも話しかけるのが適切かどうか不明です。
実際、ジムにいるその人は常にイヤホンをしています。
それに、その人が僕を覚えていない可能性もあります。
10年近く前の英会話学校の生徒の一人です。
講師をしていれば多くの日本人と出会いますから
一人ひとりを覚えていない可能性も高いでしょう。
そんなに回数が多かったわけでもありません。
回数が多くなかったのに、なぜ僕が覚えているのか?
こんなにも気になっているのか?
それは当時の僕にとって、その先生のレッスンが合わなかったからです。
ベルリッツは基本的に先生を選べません。
時間だけ予約して、誰が担当になるかは当日に分かる仕組みでした。
ただ、よほどの場合、どの先生を充てるかを
事務の人に工夫はしてもらえました。
それで僕は、唯一、その先生だけ
レッスンから外してもらうようにお願いしていたんです。
今なら対応できるでしょうが、本当に英会話学校に通い始めたばかりでは
あの先生のレッスンスタイルは効果が感じられませんでした。
しかもベルリッツの授業料は、なかなか高額ですから。
せっかくなら納得できる授業数を重ねたかったのを覚えています。
僕がその先生を拒んだことが当人に伝わっているかは知りません。
伝わっていなかったとしても、薄々は分かるでしょう。
担当するレッスン数が変わると思います。
仮に、そのジムに来ているアフリカ系アメリカ人の大柄な人が
ベルリッツで何度かレッスンを受けていた先生だったとして…。
お互いに仲良く話すほどの間柄ではありませんし、
向こうが覚えていない可能性もありますし、むしろ覚えていたとしたら
良くない印象で覚えている場合も十分にあり得ます。
実際に僕だって、当時のベルリッツで出会った先生のうち
顔と名前を認識できるのは多分、数人です。
十数人の講師の中から2,3人なんです。
そのうち2人は高頻度だった先生。
何度かしかレッスンを受けていないのに覚えているのは
「レッスンが合わなくて断ってしまった」という
ちょっとした気まずさからです。
ネガティブな感情が記憶を強めたんでしょう。
なので、お互いに覚えている可能性があるとしたら
それはあまり良い意味ではないんじゃないか、と。
だとするとジムにいるその人が、あのベルリッツの先生だったとして
話しかけるのは避けておいたほうが無難かもしれない。
そんなことを思いながら、彼の存在を意識しつつ運動しています。
2019年10月25日
札幌に来ました
とても慌ただしい日が続いていました。
たまたま多くのことが重なっている感じですが。
セミナーだけなら体力の問題ですから
休むことに注力すれば対応可能です。
そこにデスクワークが重なると回復が追いつかなくなるというか、
手が回らない印象が出てきてしまいます。
例年通り、この時期は書道の作品制作なんかも重なって
時間をとるのが大変になりがちです。
今年は11月の頭に、アメリカから講師を招いて行うセミナーがあって
そちらのお手伝いが予定されてまして、その関係で
とりわけ慌ただしさが増しているような印象です。
準備もさることながら、その期間に動けないのも
前倒しでバタバタした時間を増やしている気がします。
そんなこともあって今回の書道の作品は、一枚書き上げるのに
あまり時間のかからないものを選んではいるのですが…。
それでも余裕はなくなっているのを実感します。
珍しく語学で欠席することも増えてしまいました。
日本語から離れるとリフレッシュできる部分があるのは知っていても
身動きが取れなくなると休息が優先されがちです。
混んでいる電車に乗らないといけないのも
語学を休む大きな理由かもしれません。
近頃は、平日にセミナーがある日に
朝早く自宅を出るようになりました。
集合時間に丁度いい時間を狙って行こうとすると
どうしても朝の通勤ラッシュの影響を受けてしまいます。
以前はそれでも我慢して乗っていたんですが
最近は早く行くほうが楽に思えてきた形です。
セミナー会場はビジネス街にある建物を利用することが大半のため
近所の店も7時からしかオープンしません。
なので7時に現地に到着して、コーヒーでも飲みながら待機する。
その間、パソコンで作業をしたりして。
…そんなスタイルなら良いかと思っていました。
が、実態はそんなに甘くありません。
7時に到着する時間だと、すでに電車は混み始めています。
ギュウギュウ詰めではないものの、
すぐ近くに人が複数立っているような状態にはなってしまいました。
ちょっと揺れると隣の人と当たってしまうぐらいの混み具合。
6時台の電車はすでに混んでいるようなんです。
7時ごろに都心に到着して時間を潰すスタイルの人は
それなりに多いんでしょう。
ということで仕方なく、僕は5時半ごろに出て
セミナー会場の最寄り駅には6時半前に到着するスタイルとなりました。
これなら、まぁ多少は電車内も余裕があります。
僕が乗る駅で、運が良ければ座席が車両に1,2か所あいているぐらい。
とはいえ、大体そういう空席は、体格の大きい人の影響で
スペースが狭めになっていて敬遠されている空間です。
ですから空席があっても、当然、立っている人たちもいます。
多少はパーソナルスペースを保ったまま目的の駅まで辿り着ける。
そのぐらいの混雑度合いです。
6時前の時点でこんなにも利用客が多いのかと思うと
東京の電車事情はスゴイものだなぁと感じます。
そして会場の最寄り駅に到着する時刻では
どこの店も開いていませんから、
7時の開店まで時間を潰さなくてはいけません。
セミナー会場の建物については、入館証があるので
とりあえず非常口を通って入ることまではできます。
しかし電気がついていないんです。
なので、ここで暗い中を待機をするか。
あるいは駅のホームで時間を潰すか。
あとはコンビニあたりでウロウロしているか、でしょうか。
今のところ選択肢はこれぐらいです。
ということで、平日のセミナーの日は早起きなんです。
10年以上前、名古屋で平日にセミナーをやっていたころは
自宅の最寄り駅に6時に着くぐらいの出発時刻だったものです。
それで名古屋駅に8時半過ぎに着いて、
セミナー会場の集合時刻9時には余裕がある感じ。
その頃よりも出発が早まっているんだから妙な気分です。
で、講師が眠気を我慢しながらセミナーをやるわけにはいきませんので
前日も早めに就寝するようにしています。
これもまた全体的なスケジュールを慌ただしくさせている要因でしょう。
そしてセミナー終了後、帰宅するための電車も、混雑を避けるために
空いている電車が来るまで乗らずに待っていたり、
少しでも混雑が少ないルートに迂回したりして余計に時間がかかります。
なんとも都会の生活が厳しくなってきたようです。
11月頭にお手伝いするアメリカ人講師のセミナーに関しても
平日の日程が入ってしまいますから、通勤が少し心配なところ。
それと比べると、札幌は時間がゆっくりな気がします。
特に10月末のこの時期は観光客も少なめなようで
なんだか落ち着いた印象を受けます。
空港からの電車も、あんなに空いていたのは初めてでした。
外国人観光客が少ないのでしょうか。
雪もまだなく、気温も都内とさほど変わらず、まだ秋の様子です。
慌ただしい日が続いていただけに、いくらか気が楽になる感じがします。
残念なのは、たまたま泊まったホテルに団体客がいて声が大きいのと、
ホテルの全館空調が強烈な暖房として入っていて
暑苦しくて眠れないところぐらい。
北海道の人は暖房の設定が強めのようです。
一長一短ですね。
外国人観光客が少なめの時期だから、国内の団体客が入る。
まだ冬にならないから暖房が効きすぎて暑い。
そんなに都合よくはいかないものなんでしょう。
たまたま多くのことが重なっている感じですが。
セミナーだけなら体力の問題ですから
休むことに注力すれば対応可能です。
そこにデスクワークが重なると回復が追いつかなくなるというか、
手が回らない印象が出てきてしまいます。
例年通り、この時期は書道の作品制作なんかも重なって
時間をとるのが大変になりがちです。
今年は11月の頭に、アメリカから講師を招いて行うセミナーがあって
そちらのお手伝いが予定されてまして、その関係で
とりわけ慌ただしさが増しているような印象です。
準備もさることながら、その期間に動けないのも
前倒しでバタバタした時間を増やしている気がします。
そんなこともあって今回の書道の作品は、一枚書き上げるのに
あまり時間のかからないものを選んではいるのですが…。
それでも余裕はなくなっているのを実感します。
珍しく語学で欠席することも増えてしまいました。
日本語から離れるとリフレッシュできる部分があるのは知っていても
身動きが取れなくなると休息が優先されがちです。
混んでいる電車に乗らないといけないのも
語学を休む大きな理由かもしれません。
近頃は、平日にセミナーがある日に
朝早く自宅を出るようになりました。
集合時間に丁度いい時間を狙って行こうとすると
どうしても朝の通勤ラッシュの影響を受けてしまいます。
以前はそれでも我慢して乗っていたんですが
最近は早く行くほうが楽に思えてきた形です。
セミナー会場はビジネス街にある建物を利用することが大半のため
近所の店も7時からしかオープンしません。
なので7時に現地に到着して、コーヒーでも飲みながら待機する。
その間、パソコンで作業をしたりして。
…そんなスタイルなら良いかと思っていました。
が、実態はそんなに甘くありません。
7時に到着する時間だと、すでに電車は混み始めています。
ギュウギュウ詰めではないものの、
すぐ近くに人が複数立っているような状態にはなってしまいました。
ちょっと揺れると隣の人と当たってしまうぐらいの混み具合。
6時台の電車はすでに混んでいるようなんです。
7時ごろに都心に到着して時間を潰すスタイルの人は
それなりに多いんでしょう。
ということで仕方なく、僕は5時半ごろに出て
セミナー会場の最寄り駅には6時半前に到着するスタイルとなりました。
これなら、まぁ多少は電車内も余裕があります。
僕が乗る駅で、運が良ければ座席が車両に1,2か所あいているぐらい。
とはいえ、大体そういう空席は、体格の大きい人の影響で
スペースが狭めになっていて敬遠されている空間です。
ですから空席があっても、当然、立っている人たちもいます。
多少はパーソナルスペースを保ったまま目的の駅まで辿り着ける。
そのぐらいの混雑度合いです。
6時前の時点でこんなにも利用客が多いのかと思うと
東京の電車事情はスゴイものだなぁと感じます。
そして会場の最寄り駅に到着する時刻では
どこの店も開いていませんから、
7時の開店まで時間を潰さなくてはいけません。
セミナー会場の建物については、入館証があるので
とりあえず非常口を通って入ることまではできます。
しかし電気がついていないんです。
なので、ここで暗い中を待機をするか。
あるいは駅のホームで時間を潰すか。
あとはコンビニあたりでウロウロしているか、でしょうか。
今のところ選択肢はこれぐらいです。
ということで、平日のセミナーの日は早起きなんです。
10年以上前、名古屋で平日にセミナーをやっていたころは
自宅の最寄り駅に6時に着くぐらいの出発時刻だったものです。
それで名古屋駅に8時半過ぎに着いて、
セミナー会場の集合時刻9時には余裕がある感じ。
その頃よりも出発が早まっているんだから妙な気分です。
で、講師が眠気を我慢しながらセミナーをやるわけにはいきませんので
前日も早めに就寝するようにしています。
これもまた全体的なスケジュールを慌ただしくさせている要因でしょう。
そしてセミナー終了後、帰宅するための電車も、混雑を避けるために
空いている電車が来るまで乗らずに待っていたり、
少しでも混雑が少ないルートに迂回したりして余計に時間がかかります。
なんとも都会の生活が厳しくなってきたようです。
11月頭にお手伝いするアメリカ人講師のセミナーに関しても
平日の日程が入ってしまいますから、通勤が少し心配なところ。
それと比べると、札幌は時間がゆっくりな気がします。
特に10月末のこの時期は観光客も少なめなようで
なんだか落ち着いた印象を受けます。
空港からの電車も、あんなに空いていたのは初めてでした。
外国人観光客が少ないのでしょうか。
雪もまだなく、気温も都内とさほど変わらず、まだ秋の様子です。
慌ただしい日が続いていただけに、いくらか気が楽になる感じがします。
残念なのは、たまたま泊まったホテルに団体客がいて声が大きいのと、
ホテルの全館空調が強烈な暖房として入っていて
暑苦しくて眠れないところぐらい。
北海道の人は暖房の設定が強めのようです。
一長一短ですね。
外国人観光客が少なめの時期だから、国内の団体客が入る。
まだ冬にならないから暖房が効きすぎて暑い。
そんなに都合よくはいかないものなんでしょう。
2019年10月13日
比べると気づける
数年前までは海外ドラマの『メンタリスト』のDVDが
一年に一度、1シーズン分として発売されていて、
これを毎年購入して見ていたんです。
内容はもちろん毎回、展開がありますが
メインとなる登場人物は基本的に同じ。
ボキャブラリーも似通ったものになりやすいと思われます。
なので、一年に一度、このDVDシリーズを見ると
自分の英語のリスニング力をチェックできていたんです。
一年ぶりに同じシリーズに接したとき
前よりも内容が英語のまま入ってきやすい。
となると聴解力が上がっているのではないか。
そんな判断材料でもあったわけです。
ところが最近は海外ドラマのDVDを買うこともありません。
たまにアメリカに行ってテレビを見れば
確かに英語のチェックにはなります。
ただ、これは比較が難しいんです。
同じシリーズだから比べる基準があったんだと実感します。
また先日も海外のトレーナーを招待して
そのコーディネーター役をやったんですが、
こちらもやはり初対面なので対比は難しい。
むしろ事務的なやりとりをするための日常的なボキャブラリーが
使えるものになっていないためにスムーズでない体験をして
そちらばかりが際立って印象に残ったりもしました。
というわけで自分の英語について振り返る機会もなく、
英語力が伸びているのか自覚できていなかった、という話です。
で最近、11月に再来日するアメリカ人講師の講座について
テキストの一部をチェックする機会があったんです。
そのテキストも翻訳は、前書きを除いて僕が数年前にやりました。
もうハッキリとは覚えていないため、前書きの日本語を見たとき
「こんな訳を自分がするかな?」と感じることがあったんですが、
調べてみたら、その部分に自分の関与はありませんでした。
むしろ本文に入ると、なんとなく見覚えがある。
完成版を見て違和感のあるところをチェックすると、
自分の翻訳とは少し表現が変わっている部分でした。
最後にまとまて編集をした方が、
用語の統一や日本語の理解しやすさのために
手を入れたんだろうと思われます。
そう考えると、意外と記憶に残っているものなんだと思えました。
英文のほうに変更点があるということで
一通り元の文章をチェックしながら見直してみると、
自分の日本語訳なので、奇妙なところはすぐに見つかります。
こんな訳をするかな?と思って
古いテキストの英文と、新しい英文とを比べると
その部分に変更が見つかる。
そんな感じでチェックを進めました。
すると、そもそも英語の訳のニュアンスとして
あまりシックリこないところもあったんです。
英文のほうで変更はないけれど、
数年前の自分の訳の仕方がイマイチ。
その理由で手を入れ直した部分があります。
これは数年前に自分が翻訳したものだから
今の自分と対比させることができた、と言えそうです。
英語の理解力として、数年前よりも、いくらかは
細かい意味を捉えられるようになったのかもしれません。
当時は馴染みがなくて
適切な日本語を見つけられなかった英語のフレーズも、
ここ数年のうちに何度も接して、自然と意味を掴んでいた…
そんな可能性もありそうです。
いずれにしても、自分のやったことを改めてチェックすると
改善点の形で「新たに気づけるようになったこと」が
浮き彫りになってくるようです。
おそらくこれは翻訳だけではないでしょう。
自分が英語で書いた文章も何年後かにチェックすると
自分の英語力の伸びを自覚する材料になりそうです。
語学だけにも限らないはずです。
自分が過去に作った資料を数年後に見直す、なんていうのも
自分の理解の深まりを知る機会になるんじゃないでしょうか。
一年に一度、1シーズン分として発売されていて、
これを毎年購入して見ていたんです。
内容はもちろん毎回、展開がありますが
メインとなる登場人物は基本的に同じ。
ボキャブラリーも似通ったものになりやすいと思われます。
なので、一年に一度、このDVDシリーズを見ると
自分の英語のリスニング力をチェックできていたんです。
一年ぶりに同じシリーズに接したとき
前よりも内容が英語のまま入ってきやすい。
となると聴解力が上がっているのではないか。
そんな判断材料でもあったわけです。
ところが最近は海外ドラマのDVDを買うこともありません。
たまにアメリカに行ってテレビを見れば
確かに英語のチェックにはなります。
ただ、これは比較が難しいんです。
同じシリーズだから比べる基準があったんだと実感します。
また先日も海外のトレーナーを招待して
そのコーディネーター役をやったんですが、
こちらもやはり初対面なので対比は難しい。
むしろ事務的なやりとりをするための日常的なボキャブラリーが
使えるものになっていないためにスムーズでない体験をして
そちらばかりが際立って印象に残ったりもしました。
というわけで自分の英語について振り返る機会もなく、
英語力が伸びているのか自覚できていなかった、という話です。
で最近、11月に再来日するアメリカ人講師の講座について
テキストの一部をチェックする機会があったんです。
そのテキストも翻訳は、前書きを除いて僕が数年前にやりました。
もうハッキリとは覚えていないため、前書きの日本語を見たとき
「こんな訳を自分がするかな?」と感じることがあったんですが、
調べてみたら、その部分に自分の関与はありませんでした。
むしろ本文に入ると、なんとなく見覚えがある。
完成版を見て違和感のあるところをチェックすると、
自分の翻訳とは少し表現が変わっている部分でした。
最後にまとまて編集をした方が、
用語の統一や日本語の理解しやすさのために
手を入れたんだろうと思われます。
そう考えると、意外と記憶に残っているものなんだと思えました。
英文のほうに変更点があるということで
一通り元の文章をチェックしながら見直してみると、
自分の日本語訳なので、奇妙なところはすぐに見つかります。
こんな訳をするかな?と思って
古いテキストの英文と、新しい英文とを比べると
その部分に変更が見つかる。
そんな感じでチェックを進めました。
すると、そもそも英語の訳のニュアンスとして
あまりシックリこないところもあったんです。
英文のほうで変更はないけれど、
数年前の自分の訳の仕方がイマイチ。
その理由で手を入れ直した部分があります。
これは数年前に自分が翻訳したものだから
今の自分と対比させることができた、と言えそうです。
英語の理解力として、数年前よりも、いくらかは
細かい意味を捉えられるようになったのかもしれません。
当時は馴染みがなくて
適切な日本語を見つけられなかった英語のフレーズも、
ここ数年のうちに何度も接して、自然と意味を掴んでいた…
そんな可能性もありそうです。
いずれにしても、自分のやったことを改めてチェックすると
改善点の形で「新たに気づけるようになったこと」が
浮き彫りになってくるようです。
おそらくこれは翻訳だけではないでしょう。
自分が英語で書いた文章も何年後かにチェックすると
自分の英語力の伸びを自覚する材料になりそうです。
語学だけにも限らないはずです。
自分が過去に作った資料を数年後に見直す、なんていうのも
自分の理解の深まりを知る機会になるんじゃないでしょうか。
2019年10月03日
ポイントが失効するまで
随分とブログを放ったらかしにしていました。
二週間ぶりぐらいでしょうか。
ですが、それ以上に久しぶりだったのが本屋です。
先日、新宿の大型書店で本を買いました。
以前は頻繁に通っていた、お気に入りの本屋。
そこは書店には珍しくポイントカードがあって
大量に本を買い込んでいた時期には、いくらかお得に利用できたんです。
しかもそちらには併設のカフェもあって、一定額以上を購入すると
そこで使えるコーヒー一杯無料券をサービスしてもらえました。
(多分、今でもあるんじゃないかと思いますが)
本をたくさん読んでいた頃の僕は、3,4冊をまとめ買いしては
そのままカフェに移動して、そちらで買った本を読む…
なんてパターンをよくしていたんです。
大型書店には喫茶店併設のことは意外とあるものですから
この「まとめ買い→もらったチケットでコーヒーを飲みつつ読書」
の行動パターンは、何軒かの本屋でやっていたものです。
ですが新宿のその書店は、店内の雰囲気がオシャレな感じだったり、
本の探しやすさ、中身をチェックするときの空間的余裕があったり、
大型の割りに人が少なめだったりと、
色々な点で他の書店よりも僕の好みに合っていたようなんです。
ですから僕の住まいには、そちらの書店のブックカバーがついた本とか
そちらの書店のビニール袋に入れて小分けにした物とか、
ヘビーユーザーだった痕跡が沢山あります。
当然、そちらで発行しているポイントカードには
それなりの額のポイント残高があったと記憶していました。
ところが先日、久しぶりにそちらの書店に足を運び、
三冊ぐらい本を買ってみて驚きました。
ポイントが全て失効していたんです。
随分と久しぶりの気がしていましたが、
どうやら年単位で行っていなかったみたいです。
こんなにも時間の経過が速いとは…。
そして、こんなにも長い間、本から離れていたとは…。
もちろん、本を全く読まなかったわけではありません。
たまにAmazonで購入したりはしていましたし、
洋書をKindleで読むことはありました。
それでも量は確実に減っています。
何より、読む本のジャンルが変わってしまっていますから
それで本屋に行く頻度も下がったんだろうと思います。
思い返せば、僕が最初に本を読むようになったのは
大学生の頃、心理読み物の本でした。
一般教養で精神分析の授業を取って、その教授が加藤諦三氏だったので
そこからその先生の本を読むようになりました。
応用化学科に在籍していた当時から、心のことは好きだったんでしょう。
キャンパス内にも教科書をメインで販売する大学生協の書店がありましたが
一般書も一部売られていたので、そこでも本を見ていた思い出があります。
大学院の頃だったか、今でこそ大人気の内藤誼人氏が最初の本を出版して
平積みになっていた本を立ち読みして、すぐに購入、
これも夢中で読んだ記憶があります。
おそらく僕が心理系の技術、コミュニケーションの”方法”というものに
興味を持ったのは、この本からだったはずです。
そして心理系・コミュニケーション系に興味を持ったまま
会社員になって、山口県に3年ほど住みます。
このとき、初めて尽くしのストレスが重なり、
気分転換に利用できる娯楽が本ぐらいしか見つからなかったため、
一気に本を読む量が増えました。
本当は運動でもすれば気分も発散できたのでしょうが、
鬱々とした時期は、意識が内攻的になる分
体を動かすよりも本を読みたくなっていたんだろうと思われます。
その後、転勤で東京に戻ってきて、なんとなく速読教室に通い始めます。
当時の動機は「英語の論文を早く読みたい」というものでした。
まだ研究を頑張るつもりでしたから。
このときが「お金を払って何かを勉強しに行く」初めての体験です。
小田急線で新宿に出て、JRで池袋に移動、
そこにあった速読教室に行っていました。
当然、道中には大型書店が数軒あります。
速読のトレーニングをしているわけですから
自分で買って本を読む「実践」の頻度も上がりました。
そのときにビジネス書や自己啓発書を読むようになったんです。
そして少しして、NLPの講座に参加しました。
割りと高額のセミナーに参加する決意ができたのは、それ以前に
速読教室で「お金を払って勉強する」下地を作っていたからでしょう。
そしてNLPを一気に一通り学び、あとは専門的な知識を得るために
NLP関連の本、心理学の本、心理療法の本、脳科学の本などを読み漁りました。
専門書が増えた時期です。
しかし、そういう専門書の購入量も数年前から減ってきていました。
良くいえば、ある程度は自分の中で理解がまとまってきた、ということでしょう。
専門家として自分の見解がまとまり、他の専門家を対等に見るようになった…
とも言えるかもしれません。
研究職時代に論文を読むのは、あくまで他の研究者の事情を把握して
世の中全体で得られている情報をシェアするためでした。
何かを教わろう、学び取ろう、という話ではありません。
そんな感じに似ていると思います。
他の専門家の見解や、新たに発見された科学的な裏付けを
情報としてチェックすることはあっても、
「専門家が書いた本から学ぶ」というスタンスは減ったみたいです。
自然と「インプットのための読書」をする機会は少なくなりました。
むしろ娯楽としての読書の側面が高まったかもしれません。
が、娯楽の頻度は決して高くありません。
本屋を離れるのも不思議ではないでしょう。
最近になっても購入することがあったのは語学関連の本。
これは「本から学ぶ」とか「読んで楽しむ」とかよりも
語学のトレーニングのための練習素材として、の趣旨が強いです。
あまり読書とは言えない気がします。
自習教材を買っているだけ。
そして自習教材となると、書店が全てではなくなります。
むしろ評判のいいものを手に入れるには、通販が都合が良かったり。
なので書店で本を買うことも減っていたんでしょう。
数年間もお気に入りの本屋で購入しなかったのも納得です。
買う本の種類によって
どのように自分の興味の対象が移り変わっているか
を客観的に把握することも可能です。
同時に、書店の利用目的によっても
自分の「本に対するスタンス」がどのように変わっているか
を振り返ることもできるようです。
本が密接に関わっていた過去があるからこそ
本との関わりを通じて振り返れる内容も大きいのかもしれません。
ちなみに先日久しぶりに買った本は、すべて仏教系のものでした。
そのあたりも自分の変遷を感じさせます。
二週間ぶりぐらいでしょうか。
ですが、それ以上に久しぶりだったのが本屋です。
先日、新宿の大型書店で本を買いました。
以前は頻繁に通っていた、お気に入りの本屋。
そこは書店には珍しくポイントカードがあって
大量に本を買い込んでいた時期には、いくらかお得に利用できたんです。
しかもそちらには併設のカフェもあって、一定額以上を購入すると
そこで使えるコーヒー一杯無料券をサービスしてもらえました。
(多分、今でもあるんじゃないかと思いますが)
本をたくさん読んでいた頃の僕は、3,4冊をまとめ買いしては
そのままカフェに移動して、そちらで買った本を読む…
なんてパターンをよくしていたんです。
大型書店には喫茶店併設のことは意外とあるものですから
この「まとめ買い→もらったチケットでコーヒーを飲みつつ読書」
の行動パターンは、何軒かの本屋でやっていたものです。
ですが新宿のその書店は、店内の雰囲気がオシャレな感じだったり、
本の探しやすさ、中身をチェックするときの空間的余裕があったり、
大型の割りに人が少なめだったりと、
色々な点で他の書店よりも僕の好みに合っていたようなんです。
ですから僕の住まいには、そちらの書店のブックカバーがついた本とか
そちらの書店のビニール袋に入れて小分けにした物とか、
ヘビーユーザーだった痕跡が沢山あります。
当然、そちらで発行しているポイントカードには
それなりの額のポイント残高があったと記憶していました。
ところが先日、久しぶりにそちらの書店に足を運び、
三冊ぐらい本を買ってみて驚きました。
ポイントが全て失効していたんです。
随分と久しぶりの気がしていましたが、
どうやら年単位で行っていなかったみたいです。
こんなにも時間の経過が速いとは…。
そして、こんなにも長い間、本から離れていたとは…。
もちろん、本を全く読まなかったわけではありません。
たまにAmazonで購入したりはしていましたし、
洋書をKindleで読むことはありました。
それでも量は確実に減っています。
何より、読む本のジャンルが変わってしまっていますから
それで本屋に行く頻度も下がったんだろうと思います。
思い返せば、僕が最初に本を読むようになったのは
大学生の頃、心理読み物の本でした。
一般教養で精神分析の授業を取って、その教授が加藤諦三氏だったので
そこからその先生の本を読むようになりました。
応用化学科に在籍していた当時から、心のことは好きだったんでしょう。
キャンパス内にも教科書をメインで販売する大学生協の書店がありましたが
一般書も一部売られていたので、そこでも本を見ていた思い出があります。
大学院の頃だったか、今でこそ大人気の内藤誼人氏が最初の本を出版して
平積みになっていた本を立ち読みして、すぐに購入、
これも夢中で読んだ記憶があります。
おそらく僕が心理系の技術、コミュニケーションの”方法”というものに
興味を持ったのは、この本からだったはずです。
そして心理系・コミュニケーション系に興味を持ったまま
会社員になって、山口県に3年ほど住みます。
このとき、初めて尽くしのストレスが重なり、
気分転換に利用できる娯楽が本ぐらいしか見つからなかったため、
一気に本を読む量が増えました。
本当は運動でもすれば気分も発散できたのでしょうが、
鬱々とした時期は、意識が内攻的になる分
体を動かすよりも本を読みたくなっていたんだろうと思われます。
その後、転勤で東京に戻ってきて、なんとなく速読教室に通い始めます。
当時の動機は「英語の論文を早く読みたい」というものでした。
まだ研究を頑張るつもりでしたから。
このときが「お金を払って何かを勉強しに行く」初めての体験です。
小田急線で新宿に出て、JRで池袋に移動、
そこにあった速読教室に行っていました。
当然、道中には大型書店が数軒あります。
速読のトレーニングをしているわけですから
自分で買って本を読む「実践」の頻度も上がりました。
そのときにビジネス書や自己啓発書を読むようになったんです。
そして少しして、NLPの講座に参加しました。
割りと高額のセミナーに参加する決意ができたのは、それ以前に
速読教室で「お金を払って勉強する」下地を作っていたからでしょう。
そしてNLPを一気に一通り学び、あとは専門的な知識を得るために
NLP関連の本、心理学の本、心理療法の本、脳科学の本などを読み漁りました。
専門書が増えた時期です。
しかし、そういう専門書の購入量も数年前から減ってきていました。
良くいえば、ある程度は自分の中で理解がまとまってきた、ということでしょう。
専門家として自分の見解がまとまり、他の専門家を対等に見るようになった…
とも言えるかもしれません。
研究職時代に論文を読むのは、あくまで他の研究者の事情を把握して
世の中全体で得られている情報をシェアするためでした。
何かを教わろう、学び取ろう、という話ではありません。
そんな感じに似ていると思います。
他の専門家の見解や、新たに発見された科学的な裏付けを
情報としてチェックすることはあっても、
「専門家が書いた本から学ぶ」というスタンスは減ったみたいです。
自然と「インプットのための読書」をする機会は少なくなりました。
むしろ娯楽としての読書の側面が高まったかもしれません。
が、娯楽の頻度は決して高くありません。
本屋を離れるのも不思議ではないでしょう。
最近になっても購入することがあったのは語学関連の本。
これは「本から学ぶ」とか「読んで楽しむ」とかよりも
語学のトレーニングのための練習素材として、の趣旨が強いです。
あまり読書とは言えない気がします。
自習教材を買っているだけ。
そして自習教材となると、書店が全てではなくなります。
むしろ評判のいいものを手に入れるには、通販が都合が良かったり。
なので書店で本を買うことも減っていたんでしょう。
数年間もお気に入りの本屋で購入しなかったのも納得です。
買う本の種類によって
どのように自分の興味の対象が移り変わっているか
を客観的に把握することも可能です。
同時に、書店の利用目的によっても
自分の「本に対するスタンス」がどのように変わっているか
を振り返ることもできるようです。
本が密接に関わっていた過去があるからこそ
本との関わりを通じて振り返れる内容も大きいのかもしれません。
ちなみに先日久しぶりに買った本は、すべて仏教系のものでした。
そのあたりも自分の変遷を感じさせます。
2019年09月11日
干からびる理由
食事を変えてから「痩せた?」と聞かれることが増えてきました。
それで体重を測ってみることに。
まあ、少し減ったようです。
が、それ以上にビックリしたことがありました。
週末に2日セミナーをやると、
月曜日の体重が1.5キロぐらい減っているんです。
セミナーの日も普通に食べます。
むしろ食べる量は増えているぐらい。
何より、2日で1.5キロも肉が減るわけはなさそうですから、
おそらくは水分で体重が変わるんでしょう。
実際、一日休むと、次の日には戻りますし。
どおりでセミナー翌日は全身がカサカサになっているわけです。
しかしながら、セミナーの日は水分も採っているんです。
それもかなり多めに。
食べ物の分を除いて、飲み物として3リットル以上。
それが汗と尿で排泄されてしまうようです。
体重が減るということは、まだ足りないのか…。
でも飲んでとしても出てしまいそうな気がします。
そもそも代謝が変わるんでしょう。
セミナーのときは自律神経の働きが変わるのかもしれません。
まあ、たいした問題ではありませんが。
それで体重を測ってみることに。
まあ、少し減ったようです。
が、それ以上にビックリしたことがありました。
週末に2日セミナーをやると、
月曜日の体重が1.5キロぐらい減っているんです。
セミナーの日も普通に食べます。
むしろ食べる量は増えているぐらい。
何より、2日で1.5キロも肉が減るわけはなさそうですから、
おそらくは水分で体重が変わるんでしょう。
実際、一日休むと、次の日には戻りますし。
どおりでセミナー翌日は全身がカサカサになっているわけです。
しかしながら、セミナーの日は水分も採っているんです。
それもかなり多めに。
食べ物の分を除いて、飲み物として3リットル以上。
それが汗と尿で排泄されてしまうようです。
体重が減るということは、まだ足りないのか…。
でも飲んでとしても出てしまいそうな気がします。
そもそも代謝が変わるんでしょう。
セミナーのときは自律神経の働きが変わるのかもしれません。
まあ、たいした問題ではありませんが。
2019年09月07日
調べれば見つかる
調べてみると世の中には便利なものがあるんですね。
インターネットがあるからこそ見つけられるわけですが、
今のような情報化がなされる前には
詳しい人に直接教えてもらうぐらいしか方法が無かったのかもしれません。
僕の出張用のカバンには、
移動中に使う用途のイヤホンを入れっぱなしにしてあります。
随分と前に購入して、普段使いには少しだけ不便なものだったので
使用頻度の少ない出張用にしてしまった形です。
どうもケーブルが細いのか、クルクルと丸まってしまったり、
絡み合ったりして使い勝手がよろしくないんです。
そもそも音色へのコダワリはあまりないので
高級品を買う必要もないんですが、
丸まったり捩じれたりしたケーブルが首に当たるのがどうも好きではない。
それでも新幹線とか飛行機の中だけのつもりだったので
我慢して使い続けていました。
ただ最近は、コンビニでも安いイヤホンが売っているぐらいですし、
安くてもケーブルが丈夫そうなのがありますから
わざわざ不快な思いをし続ける必要もなさそうに思ってきました。
それで少しだけネットでイヤホンを調べてみたんです。
主な用途は出張を中心にした長距離移動の最中。
乗り物の中が前提です。
そうすると、ノイズキャンセリング機能というのが良さそうな話が見つかります。
とくに飛行機の中だと、常になり続けている「ゴーッ」という低音が
大部分をキャンセルして静かになるとのことでした。
体で感じる振動だけでなく、耳から感じる振動もストレス要因らしく
人によってはノイズキャンセリングのイヤホンやヘッドホンを使うだけで
疲労感が激減するらしいんです。
これは試してみたい。
ヘッドホンは耳が圧迫されて痛くなるので
イヤホン形式で調べてみると、
比較的リーズナブルなものもあるようでした。
ここ数年は、年に1,2回、海外に行く機会がありますから
長時間のフライトにも望ましいのではないかと思えてきます。
ひょっとしたら飛行機の中で寝られたりして…なんて
甘い期待も少し持っているところです。
で、飛行機と関係させながら気にして調べ続けていると
飛行機用のイヤホンジャックなんてのも見つかりました。
国際線の場合、だいたいは、各座席に専用モニターがついています。
その音声は、同じく各座席のイヤホンジャックから
ヘッドホンやイヤホンを使って聞く形式です。
前述のとおり、僕はヘッドホンで圧迫されて耳が痛くなるのが苦手です。
2時間の映画一本をヘッドホン使用で見ようものなら
その痛みから高確率で片頭痛に発展するんです。
なので通常は自分のイヤホンを使います。
ところが、飛行機の種類によっては
座席に設定されているイヤホンの差込口が2穴のことがあります。
普通のイヤホンジャックは一本の棒ですが、
飛行機によっては日本の棒が差し込まれる形なんです。
先端が枝分かれしている、と。
そこに普通のイヤホンを差し込むと
音が片耳からしか聞こえません。
2つの穴が、それぞれの耳の音に対応しているんでしょう。
それでステレオ音声を作り出す仕組みなんだと思います。
厳密には、片方が普通の音量で、もう一方がすごく小さい音
なだけですから、まったく映画が楽しめないわけではありません。
なので僕は音質が悪くても我慢して
片耳メインでイヤホンを使っていました。
そうやって長時間のフライトの間、映画を見ていたわけです。
しかしながら世の中には、
飛行機の2穴の差込口に対応した変換プラグが存在するようです。
これを接続すれば、普通のイヤホンを使って
飛行機のモニター用の音声をステレオで両耳で聞くことができる。
しかも数百円程度です。
別に新発明なわけでもないんでしょう。
ただ僕が知らなかっただけ。
それで僕は数年にわたって、片耳の音で何時間も我慢していたんです。
知らないだけで損をするというか、
知っていさえすれば簡単に対応できたというか。
調べてみれば便利なものがあるんだ、という話です。
これとノイズキャンセリングのイヤホンを組み合わせたら
もしかすると国際線の飛行機移動も随分と快適になるのではないか…
そんなことを想像して、少し楽しみになってきています。
自分が思いついて対処する範囲なんて限られているものなんでしょう。
詳しい人だったら簡単に、もっと効果的な解決策を知っているかもしれない。
自分の思いつく「その場しのぎ」に固執せず、
よりよい解決策を探してみるのも良いような気がします。
インターネットがあるからこそ見つけられるわけですが、
今のような情報化がなされる前には
詳しい人に直接教えてもらうぐらいしか方法が無かったのかもしれません。
僕の出張用のカバンには、
移動中に使う用途のイヤホンを入れっぱなしにしてあります。
随分と前に購入して、普段使いには少しだけ不便なものだったので
使用頻度の少ない出張用にしてしまった形です。
どうもケーブルが細いのか、クルクルと丸まってしまったり、
絡み合ったりして使い勝手がよろしくないんです。
そもそも音色へのコダワリはあまりないので
高級品を買う必要もないんですが、
丸まったり捩じれたりしたケーブルが首に当たるのがどうも好きではない。
それでも新幹線とか飛行機の中だけのつもりだったので
我慢して使い続けていました。
ただ最近は、コンビニでも安いイヤホンが売っているぐらいですし、
安くてもケーブルが丈夫そうなのがありますから
わざわざ不快な思いをし続ける必要もなさそうに思ってきました。
それで少しだけネットでイヤホンを調べてみたんです。
主な用途は出張を中心にした長距離移動の最中。
乗り物の中が前提です。
そうすると、ノイズキャンセリング機能というのが良さそうな話が見つかります。
とくに飛行機の中だと、常になり続けている「ゴーッ」という低音が
大部分をキャンセルして静かになるとのことでした。
体で感じる振動だけでなく、耳から感じる振動もストレス要因らしく
人によってはノイズキャンセリングのイヤホンやヘッドホンを使うだけで
疲労感が激減するらしいんです。
これは試してみたい。
ヘッドホンは耳が圧迫されて痛くなるので
イヤホン形式で調べてみると、
比較的リーズナブルなものもあるようでした。
ここ数年は、年に1,2回、海外に行く機会がありますから
長時間のフライトにも望ましいのではないかと思えてきます。
ひょっとしたら飛行機の中で寝られたりして…なんて
甘い期待も少し持っているところです。
で、飛行機と関係させながら気にして調べ続けていると
飛行機用のイヤホンジャックなんてのも見つかりました。
国際線の場合、だいたいは、各座席に専用モニターがついています。
その音声は、同じく各座席のイヤホンジャックから
ヘッドホンやイヤホンを使って聞く形式です。
前述のとおり、僕はヘッドホンで圧迫されて耳が痛くなるのが苦手です。
2時間の映画一本をヘッドホン使用で見ようものなら
その痛みから高確率で片頭痛に発展するんです。
なので通常は自分のイヤホンを使います。
ところが、飛行機の種類によっては
座席に設定されているイヤホンの差込口が2穴のことがあります。
普通のイヤホンジャックは一本の棒ですが、
飛行機によっては日本の棒が差し込まれる形なんです。
先端が枝分かれしている、と。
そこに普通のイヤホンを差し込むと
音が片耳からしか聞こえません。
2つの穴が、それぞれの耳の音に対応しているんでしょう。
それでステレオ音声を作り出す仕組みなんだと思います。
厳密には、片方が普通の音量で、もう一方がすごく小さい音
なだけですから、まったく映画が楽しめないわけではありません。
なので僕は音質が悪くても我慢して
片耳メインでイヤホンを使っていました。
そうやって長時間のフライトの間、映画を見ていたわけです。
しかしながら世の中には、
飛行機の2穴の差込口に対応した変換プラグが存在するようです。
これを接続すれば、普通のイヤホンを使って
飛行機のモニター用の音声をステレオで両耳で聞くことができる。
しかも数百円程度です。
別に新発明なわけでもないんでしょう。
ただ僕が知らなかっただけ。
それで僕は数年にわたって、片耳の音で何時間も我慢していたんです。
知らないだけで損をするというか、
知っていさえすれば簡単に対応できたというか。
調べてみれば便利なものがあるんだ、という話です。
これとノイズキャンセリングのイヤホンを組み合わせたら
もしかすると国際線の飛行機移動も随分と快適になるのではないか…
そんなことを想像して、少し楽しみになってきています。
自分が思いついて対処する範囲なんて限られているものなんでしょう。
詳しい人だったら簡単に、もっと効果的な解決策を知っているかもしれない。
自分の思いつく「その場しのぎ」に固執せず、
よりよい解決策を探してみるのも良いような気がします。
2019年09月02日
通訳に向いているかどうか
インターネットの検索結果が広告内容と関連するのは
もうすっかり当たり前になった感じもしますが、
広告の閲覧履歴なんかも、次の広告表示に影響するようです。
スマホでうっかり触ってしまって偶然に広告を開いてしまったりすると
その後、似たような内容のものとして表示されたりしますし。
僕の場合、外国語関連の検索をしたりすることが多く、
自然と広告にも外国語のものが多い印象を受けます。
そうはいっても英語のニーズの高さは
他の外国語と比べものになりませんから、
表示されてくる広告も当然、英語関連ばかり。
勉強法やら英語コーチングやら、英会話カフェやら、スクールやら。
先日は通訳学校の広告も出てきました。
英語力を土台から高める、という観点では
通訳のトレーニングは効果的かもしれないと感じるところもあります。
実際、チョット興味があるんです。
一方で、英語と日本語が常に行ったり来たりする状態になっていると
切り替えがどうなるのか、という心配もあります。
「通訳モード」みたいなのが出来上がるのかもしれませんが
普段、英語だけ、日本語だけを話しているときには
どういう感じになるんでしょうか?
僕が見ている感じでは、通訳をやっている人には
NLP的にいうと、1つの体験にアソシエイトしやすく
同時に抽象度の高い作業に意識が向きやすい傾向がありそうな印象です。
目の前のことに集中することができて、
しかも法則やパターンとして持っているものを
堅実に使い続けることができる。
また、要領がよくて、瞬間的にポイントを掴む能力にも長けた傾向です。
細かいことを考えすぎて進めなくなるタイプではない感じ。
実際、通訳をしている最中に、
「もっとこっちのニュアンスのほうが近いかも…」
なんて気にしている時間的余裕はないのかもしれません。
一字一句を覚えて、翻訳をするわけでもないようですし。
話の内容を押さえて、それに対応する日本語の文章に変換する。
その意味で、通訳は「translator」ではなく
「interpreter」と呼ばれるのかもしれません。
フランス語からスペイン語のように、近い言語であれば
単語と単語で一対一の変換を行って、
同じ構文を使って正確な翻訳作業もできる可能性はありそうですが、
日本語と英語のように文法的にも単語としても大きく異なる言語では
会話の最中に「翻訳」をすることは困難だと想像されます。
むしろ意味合いを理解して、元の意味合いに近い内容を
日本語に置き換える作業のほうがスムーズなんじゃないでしょうか。
だから「解釈」の意味を持つ「interpret」が使われる、と。
調べてみると、通訳学校でも要約のトレーニングをするらしいです。
一字一句を正確に覚えることより、意味を捉えることが現実的には重要…
ということを示唆しているような気がします。
ですから、ポイントを掴みとる能力が高い傾向、
チャンクアップ能力が求められる分野なのではないか、という話です。
通訳のトレーニングをするうちに、その能力が高まる人もいるでしょうし、
もともとその傾向が高い人が通訳になりやすいとも言えそうですが。
じゃあ、僕はどういう傾向かというと、
ちょうど真逆なフシがあります。
細かい違いに目が向きやすく、要領が良い方ではありません。
1つの言葉についても、極力、元の意味に近いものを探したくなってしまう。
翻訳作業なんかをすることもありますが、この理由で時間はかかるとはいえ
自然な日本語に近い言い回しで、かつ元の意味合いを維持する
という方向性のほうが得意なように思います。
よく使われる日本語の意味として曖昧なものがあったりすると、
そういう単語は選ばないように気をつけたくなってしまうんです。
例えば、NLPとか瞑想とかで出てくる「awareness」という単語。
辞書では「気づき」という訳語が与えられることが多いですが、
これは「気づいている aware」という形容詞の名詞化されたものです。
だから「気づいていること」のほうが正確なんです。
「気づき」と言ってしまうと、一般的な日本語では
「気づく」という一瞬の変化を説明する動詞が想定されやすいはずです。
「今日は、こんな気づきがありました」
「やってみて、どんな気づきがありましたか?」
のようなニュアンス。
「発見」に近いんです。
finding とか realization とかのほうが日本語の「気づき」に近い。
すごく訳しにくい言葉だと思います。
翻訳であれば、訳注をつけたり、元の単語を併記したりして
誤解を防ぎやすくすることも可能でしょう。
ですが、通訳の場合、そこまでの時間的余裕はないんだろうと思われます。
結果、多くの場合、一般的に使われる単語に置き換えて話が進む。
細部の正確さよりも、聞いている人が全体として理解できる方が
重視されるところもあるんでしょうし、なにより
聞いている側がそんなに細かいところを気にしているわけではない、
というのも大きいと思います。
話を聞いていて、一字一句を覚えている人なんていませんから。
全体の内容が掴めるようにするほうが重要なんだろうと想像します。
(もちろん、一流の通訳者になると
全体のスムーズさと、細かな単語のニュアンスと
両方を扱えるんだろうとは思いますが)
それに対して、僕の傾向としては、そういう細かい単語の意味の違いとか
理解しやすい日本語の文章構造とか、自然な言い回しとか、
全体からしたら大して重要ではない詳細に意識が向きやすいところがあります。
これだと翻訳はできても、通訳は難しいのではないか?
という気がしてなりません。
また僕は、1つのことに集中しにくい傾向も強いんです。
集中するというよりは、常に意識が分散していて
色々なことが複数、頭の中で展開している印象があります。
目の前の作業に集中できれば、少し前のことは終わったこととして
1つ1つ目の前で話されるものを着実に翻訳しやすいだろうと想像できます。
一方、複数のことを同時に意識する傾向があると
目の前の作業をやりながらも、以前のことも常に気にしている感じになる。
訳し方として複数のアイデアが浮かんできたら、
その全てを同時に意識してしまうので、選ぶ作業も負担になります。
多分、スムーズに口から言葉が出てきにくいと思います。
実際、英語のスピーキングのテストの対策講座なんかでも、何度となく
講師から「話す前にも、話しながらも、考え過ぎている」と指摘されます。
英語力を測るテストなのであって、内容は重視されていない。
だから適当に話し続けることのほうが大事。
…そうは言われても、質問されると沢山の考えが頭に浮かんできますし、
話しながらでも自分が言ったことが頭から離れません。
常に複数のことを同時進行で意識しているため
発話のスムーズさが妨げられる傾向があるようです。
まぁ、これは日本語でも起こっていることなんですが。
質問されると答えを見つけるまでに時間がかかります。
この意識を分散させやすい傾向は、物事の関連性を見つけるのに役立ちます。
なので「ポイントを掴む」という意味での要領はよくありませんが、
他のことと関連づけながら「理解する」というのには有利なようです。
ところが通訳は、自分が理解することが目的ではありません。
むしろ自分の知っている他のことが浮かんできたら、
それは気が散るだけのことになってしまいそうです。
通訳しながら「あれ?じゃあ、あれとの関連はどうなっているんだろう?」
なんて質問をするわけにはいかないわけです。
通訳としては1つ1つの話を着実に変換することが重要で、
その話の内容に疑問をもつ必要はないはずです。
…というより、むしろ疑問をもつことは
スムーズに発話するのを妨げるものにしかならないでしょう。
そして心配材料。
日本語への影響はどうなのか?ということ。
これについても、意識が分散しているのが懸念のポイントとなります。
複数が同時に意識に浮かびやすいので、
日本語を話していても頭の片隅に英語が出てくるとか、
英語を話していても日本語も同時に意識しているとか、
そういうことが起きてくるのではないか?と推測されます。
実際、英語を話していてもフランス語は浮かんでくるんです。
逆もしかり。
現時点では英語と日本語の違いの大きさからか、
英語と日本語が混ざることは少ないです。
しかし通訳トレーニングをやったら、両者の距離が近づくというか
相互変換がスムーズになるほど、混在しやすくなりそうにも思えます。
頭の裏側で常に別言語が進行するような感じになったら…。
まぁ、慣れるのかもしれませんが
意識に上がることが増えるのは負担にもなりそうですし。
ということで、通訳に向いていない個性が僕にありそうだということと、
頭の中がややこしくなりそうだということで、
今のところ通訳のトレーニングについては二の足を踏んでいる状況です。
もうすっかり当たり前になった感じもしますが、
広告の閲覧履歴なんかも、次の広告表示に影響するようです。
スマホでうっかり触ってしまって偶然に広告を開いてしまったりすると
その後、似たような内容のものとして表示されたりしますし。
僕の場合、外国語関連の検索をしたりすることが多く、
自然と広告にも外国語のものが多い印象を受けます。
そうはいっても英語のニーズの高さは
他の外国語と比べものになりませんから、
表示されてくる広告も当然、英語関連ばかり。
勉強法やら英語コーチングやら、英会話カフェやら、スクールやら。
先日は通訳学校の広告も出てきました。
英語力を土台から高める、という観点では
通訳のトレーニングは効果的かもしれないと感じるところもあります。
実際、チョット興味があるんです。
一方で、英語と日本語が常に行ったり来たりする状態になっていると
切り替えがどうなるのか、という心配もあります。
「通訳モード」みたいなのが出来上がるのかもしれませんが
普段、英語だけ、日本語だけを話しているときには
どういう感じになるんでしょうか?
僕が見ている感じでは、通訳をやっている人には
NLP的にいうと、1つの体験にアソシエイトしやすく
同時に抽象度の高い作業に意識が向きやすい傾向がありそうな印象です。
目の前のことに集中することができて、
しかも法則やパターンとして持っているものを
堅実に使い続けることができる。
また、要領がよくて、瞬間的にポイントを掴む能力にも長けた傾向です。
細かいことを考えすぎて進めなくなるタイプではない感じ。
実際、通訳をしている最中に、
「もっとこっちのニュアンスのほうが近いかも…」
なんて気にしている時間的余裕はないのかもしれません。
一字一句を覚えて、翻訳をするわけでもないようですし。
話の内容を押さえて、それに対応する日本語の文章に変換する。
その意味で、通訳は「translator」ではなく
「interpreter」と呼ばれるのかもしれません。
フランス語からスペイン語のように、近い言語であれば
単語と単語で一対一の変換を行って、
同じ構文を使って正確な翻訳作業もできる可能性はありそうですが、
日本語と英語のように文法的にも単語としても大きく異なる言語では
会話の最中に「翻訳」をすることは困難だと想像されます。
むしろ意味合いを理解して、元の意味合いに近い内容を
日本語に置き換える作業のほうがスムーズなんじゃないでしょうか。
だから「解釈」の意味を持つ「interpret」が使われる、と。
調べてみると、通訳学校でも要約のトレーニングをするらしいです。
一字一句を正確に覚えることより、意味を捉えることが現実的には重要…
ということを示唆しているような気がします。
ですから、ポイントを掴みとる能力が高い傾向、
チャンクアップ能力が求められる分野なのではないか、という話です。
通訳のトレーニングをするうちに、その能力が高まる人もいるでしょうし、
もともとその傾向が高い人が通訳になりやすいとも言えそうですが。
じゃあ、僕はどういう傾向かというと、
ちょうど真逆なフシがあります。
細かい違いに目が向きやすく、要領が良い方ではありません。
1つの言葉についても、極力、元の意味に近いものを探したくなってしまう。
翻訳作業なんかをすることもありますが、この理由で時間はかかるとはいえ
自然な日本語に近い言い回しで、かつ元の意味合いを維持する
という方向性のほうが得意なように思います。
よく使われる日本語の意味として曖昧なものがあったりすると、
そういう単語は選ばないように気をつけたくなってしまうんです。
例えば、NLPとか瞑想とかで出てくる「awareness」という単語。
辞書では「気づき」という訳語が与えられることが多いですが、
これは「気づいている aware」という形容詞の名詞化されたものです。
だから「気づいていること」のほうが正確なんです。
「気づき」と言ってしまうと、一般的な日本語では
「気づく」という一瞬の変化を説明する動詞が想定されやすいはずです。
「今日は、こんな気づきがありました」
「やってみて、どんな気づきがありましたか?」
のようなニュアンス。
「発見」に近いんです。
finding とか realization とかのほうが日本語の「気づき」に近い。
すごく訳しにくい言葉だと思います。
翻訳であれば、訳注をつけたり、元の単語を併記したりして
誤解を防ぎやすくすることも可能でしょう。
ですが、通訳の場合、そこまでの時間的余裕はないんだろうと思われます。
結果、多くの場合、一般的に使われる単語に置き換えて話が進む。
細部の正確さよりも、聞いている人が全体として理解できる方が
重視されるところもあるんでしょうし、なにより
聞いている側がそんなに細かいところを気にしているわけではない、
というのも大きいと思います。
話を聞いていて、一字一句を覚えている人なんていませんから。
全体の内容が掴めるようにするほうが重要なんだろうと想像します。
(もちろん、一流の通訳者になると
全体のスムーズさと、細かな単語のニュアンスと
両方を扱えるんだろうとは思いますが)
それに対して、僕の傾向としては、そういう細かい単語の意味の違いとか
理解しやすい日本語の文章構造とか、自然な言い回しとか、
全体からしたら大して重要ではない詳細に意識が向きやすいところがあります。
これだと翻訳はできても、通訳は難しいのではないか?
という気がしてなりません。
また僕は、1つのことに集中しにくい傾向も強いんです。
集中するというよりは、常に意識が分散していて
色々なことが複数、頭の中で展開している印象があります。
目の前の作業に集中できれば、少し前のことは終わったこととして
1つ1つ目の前で話されるものを着実に翻訳しやすいだろうと想像できます。
一方、複数のことを同時に意識する傾向があると
目の前の作業をやりながらも、以前のことも常に気にしている感じになる。
訳し方として複数のアイデアが浮かんできたら、
その全てを同時に意識してしまうので、選ぶ作業も負担になります。
多分、スムーズに口から言葉が出てきにくいと思います。
実際、英語のスピーキングのテストの対策講座なんかでも、何度となく
講師から「話す前にも、話しながらも、考え過ぎている」と指摘されます。
英語力を測るテストなのであって、内容は重視されていない。
だから適当に話し続けることのほうが大事。
…そうは言われても、質問されると沢山の考えが頭に浮かんできますし、
話しながらでも自分が言ったことが頭から離れません。
常に複数のことを同時進行で意識しているため
発話のスムーズさが妨げられる傾向があるようです。
まぁ、これは日本語でも起こっていることなんですが。
質問されると答えを見つけるまでに時間がかかります。
この意識を分散させやすい傾向は、物事の関連性を見つけるのに役立ちます。
なので「ポイントを掴む」という意味での要領はよくありませんが、
他のことと関連づけながら「理解する」というのには有利なようです。
ところが通訳は、自分が理解することが目的ではありません。
むしろ自分の知っている他のことが浮かんできたら、
それは気が散るだけのことになってしまいそうです。
通訳しながら「あれ?じゃあ、あれとの関連はどうなっているんだろう?」
なんて質問をするわけにはいかないわけです。
通訳としては1つ1つの話を着実に変換することが重要で、
その話の内容に疑問をもつ必要はないはずです。
…というより、むしろ疑問をもつことは
スムーズに発話するのを妨げるものにしかならないでしょう。
そして心配材料。
日本語への影響はどうなのか?ということ。
これについても、意識が分散しているのが懸念のポイントとなります。
複数が同時に意識に浮かびやすいので、
日本語を話していても頭の片隅に英語が出てくるとか、
英語を話していても日本語も同時に意識しているとか、
そういうことが起きてくるのではないか?と推測されます。
実際、英語を話していてもフランス語は浮かんでくるんです。
逆もしかり。
現時点では英語と日本語の違いの大きさからか、
英語と日本語が混ざることは少ないです。
しかし通訳トレーニングをやったら、両者の距離が近づくというか
相互変換がスムーズになるほど、混在しやすくなりそうにも思えます。
頭の裏側で常に別言語が進行するような感じになったら…。
まぁ、慣れるのかもしれませんが
意識に上がることが増えるのは負担にもなりそうですし。
ということで、通訳に向いていない個性が僕にありそうだということと、
頭の中がややこしくなりそうだということで、
今のところ通訳のトレーニングについては二の足を踏んでいる状況です。