コミュニケーション
2020年02月15日
ようやく
随分と久しぶりにブログにログインしました。
一か月以上も更新しなかったのは初めての経験です。
やっと少しだけ、時間的にも頭にも余裕が出てきた感じで
とりたてて何かを書きたいわけではないものの
こうしてキーボードを打ち始めました。
ブログを頻繁に更新していた時期は
自分でも一番勉強していた頃というか、日々いろいろなことを発見して、
その頭の整理をしていたんだと思います。
最近はもう、そういうことが滅多にありません。
何か面白い発見があるわけではない感じ。
世情に対して自分の意見が出てくることも以前のほうが多かったものです。
「何かの出来事が、自分にとって意味のあることとして印象に残る」
という経験が少なくなってきた気がします。
そうやって振り返ると少し寂しいような気もしてきますが、
日々はそのまま振り返ることなく流れていきますから
その寂しささえも感じることがないんでしょう。
良く言えば安定しているし、
悪く言えば心が動かされないし…と。
とはいえ、こうして書き始めてみて
この一カ月ぐらいの間に何があったかと思い返してみると
それなりに書くネタはありそうな気もしてきます。
にもかかわらずブログを放置していたのは
やはり時間的な余裕の部分の関係と、何よりも
「書く」という行為への心理的ハードルがあったように感じます。
端的にいうと「書く」行為を人のためにやっていたんです。
ホームページとか広告とか、そういった内容。
自分のアウトプットではなく、誰かの考えを整理して書きまとめる…
といった作業が増えてくると、書く作業そのものの時間が増えて
その行為自体に頭の中が占有される比率が高まってきます。
頭の中に、他のことを探索するスペースがないような状態でした。
その一方で、無理やり自分の経験や考えを書く必要があったのは
フランス語の自習課題としてのライティング作業。
これについては月に2回程度、スピーキング中心のレッスンのために
A4一枚程度の内容を書いて、それについて話すトレーニングをしています。
近頃は多少、フランス語の発話にも慣れてきたので
書いて準備をしていなくてもフリートーク的に話せそうな気はします。
それでも語学力を向上させるのにライティングは非常に効果的で
書いた内容は話しやすくなる経験が多いですから
アウトプットのトレーニングとして書くことは続けるつもりなんです。
ただし…。
作業に時間がかかります。
書いたものをネイティブの先生にチェックしてもらうことも考えると
無駄に長いものにはできません。
また、そのフランス人の先生は、そもそも文章力が高い人のようで
学生時代も同級生から浮いてしまうぐらいに
ライティング課題を楽しみつつ好成績を収めていたそうです。
そんな先生にチェックしてもらう兼ね合いもあって
あまりに論理構成が適当だと、フランス語以前に修正が増えてしまいます。
かなり入念に話の構成を練って、説明の順番や情報量の調整も必要です。
やみくもに書いて長くなってしまったらA4一枚に収まらないし、
途中で無理やりA4一枚の量に調整したら内容がおろそかになる。
なので内容を大まかに考えて、段落構成を事前に想定して
それから書き始めることになります。
書きながらも情報量を考慮して、
さらに読んでわかりやすいように工夫して、
A4一枚で最終的に話がまとまるように展開させて…、
最後に量の再調整をするために見直しと修正を加える。
これをやると書き始めるまでにも時間がかかりますし、
書き始めてからも2,3時間はかかってしまいます。
時間的にも頭の作業としても、意外と負荷が大きいんです。
仕事関係のお手伝いで「書く」作業の比率が上がっていたところに、
フランス語のライティングのトレーニングとして
自分ごとと無理やり絡めながらネタを考えないといけないときがある…。
そうしていると、いくら気軽に日本語で書けるブログでも
「何を書こうかなぁ」と考え始めると、
なかなかネタが思いつかなくなってしまうんでしょう。
最近になってやっと、仕事絡みでの書く作業が下がってきて
自分の体験に意識を向ける余裕が出てきたようです。
ちなみに今は、名古屋のホテルです。
自宅のパソコンではないのも、書く行為への余裕を
高めてくれるのかもしれません。
二週間ぐらい前にも大阪のホテルに滞在していたとき
ブログを書いてみようかと思ったところもあったんですが、
その日はやっぱり、手伝いで整理しないといけない報告物があって
そっちを書きまとめるのに時間が取られてしまいました。
今日は本当に久しぶりの頭の使い方をしています。
こういう作業も始めてしまえば、それなりにネタが出てくるものですね。
いざとなればフランス語のライティング内容を翻訳しても良いでしょうし。
すごく基本的なNLPの話とかをしてみるのも良いかもしれません。
僕がNLPの講座で担当する内容も限られていますから
どこかでアウトプットしておくのも悪くない気がします。
あとは自宅のパソコンに向かう気力があるかどうか、ですが。
また少しブログを再開してみようと思っています。
一か月以上も更新しなかったのは初めての経験です。
やっと少しだけ、時間的にも頭にも余裕が出てきた感じで
とりたてて何かを書きたいわけではないものの
こうしてキーボードを打ち始めました。
ブログを頻繁に更新していた時期は
自分でも一番勉強していた頃というか、日々いろいろなことを発見して、
その頭の整理をしていたんだと思います。
最近はもう、そういうことが滅多にありません。
何か面白い発見があるわけではない感じ。
世情に対して自分の意見が出てくることも以前のほうが多かったものです。
「何かの出来事が、自分にとって意味のあることとして印象に残る」
という経験が少なくなってきた気がします。
そうやって振り返ると少し寂しいような気もしてきますが、
日々はそのまま振り返ることなく流れていきますから
その寂しささえも感じることがないんでしょう。
良く言えば安定しているし、
悪く言えば心が動かされないし…と。
とはいえ、こうして書き始めてみて
この一カ月ぐらいの間に何があったかと思い返してみると
それなりに書くネタはありそうな気もしてきます。
にもかかわらずブログを放置していたのは
やはり時間的な余裕の部分の関係と、何よりも
「書く」という行為への心理的ハードルがあったように感じます。
端的にいうと「書く」行為を人のためにやっていたんです。
ホームページとか広告とか、そういった内容。
自分のアウトプットではなく、誰かの考えを整理して書きまとめる…
といった作業が増えてくると、書く作業そのものの時間が増えて
その行為自体に頭の中が占有される比率が高まってきます。
頭の中に、他のことを探索するスペースがないような状態でした。
その一方で、無理やり自分の経験や考えを書く必要があったのは
フランス語の自習課題としてのライティング作業。
これについては月に2回程度、スピーキング中心のレッスンのために
A4一枚程度の内容を書いて、それについて話すトレーニングをしています。
近頃は多少、フランス語の発話にも慣れてきたので
書いて準備をしていなくてもフリートーク的に話せそうな気はします。
それでも語学力を向上させるのにライティングは非常に効果的で
書いた内容は話しやすくなる経験が多いですから
アウトプットのトレーニングとして書くことは続けるつもりなんです。
ただし…。
作業に時間がかかります。
書いたものをネイティブの先生にチェックしてもらうことも考えると
無駄に長いものにはできません。
また、そのフランス人の先生は、そもそも文章力が高い人のようで
学生時代も同級生から浮いてしまうぐらいに
ライティング課題を楽しみつつ好成績を収めていたそうです。
そんな先生にチェックしてもらう兼ね合いもあって
あまりに論理構成が適当だと、フランス語以前に修正が増えてしまいます。
かなり入念に話の構成を練って、説明の順番や情報量の調整も必要です。
やみくもに書いて長くなってしまったらA4一枚に収まらないし、
途中で無理やりA4一枚の量に調整したら内容がおろそかになる。
なので内容を大まかに考えて、段落構成を事前に想定して
それから書き始めることになります。
書きながらも情報量を考慮して、
さらに読んでわかりやすいように工夫して、
A4一枚で最終的に話がまとまるように展開させて…、
最後に量の再調整をするために見直しと修正を加える。
これをやると書き始めるまでにも時間がかかりますし、
書き始めてからも2,3時間はかかってしまいます。
時間的にも頭の作業としても、意外と負荷が大きいんです。
仕事関係のお手伝いで「書く」作業の比率が上がっていたところに、
フランス語のライティングのトレーニングとして
自分ごとと無理やり絡めながらネタを考えないといけないときがある…。
そうしていると、いくら気軽に日本語で書けるブログでも
「何を書こうかなぁ」と考え始めると、
なかなかネタが思いつかなくなってしまうんでしょう。
最近になってやっと、仕事絡みでの書く作業が下がってきて
自分の体験に意識を向ける余裕が出てきたようです。
ちなみに今は、名古屋のホテルです。
自宅のパソコンではないのも、書く行為への余裕を
高めてくれるのかもしれません。
二週間ぐらい前にも大阪のホテルに滞在していたとき
ブログを書いてみようかと思ったところもあったんですが、
その日はやっぱり、手伝いで整理しないといけない報告物があって
そっちを書きまとめるのに時間が取られてしまいました。
今日は本当に久しぶりの頭の使い方をしています。
こういう作業も始めてしまえば、それなりにネタが出てくるものですね。
いざとなればフランス語のライティング内容を翻訳しても良いでしょうし。
すごく基本的なNLPの話とかをしてみるのも良いかもしれません。
僕がNLPの講座で担当する内容も限られていますから
どこかでアウトプットしておくのも悪くない気がします。
あとは自宅のパソコンに向かう気力があるかどうか、ですが。
また少しブログを再開してみようと思っています。
2019年11月08日
東京にいながら
今年の慌ただしさのピークは過ぎたような感じです。
10月末から11月の初めにかけて約一週間、
アメリカから招聘した先生のワークショップを手伝う機会がありました。
同じ内容の講座は過去にも開催していたため
事前準備として多くのことがあったわけではありません。
先生とも既に顔見知りでしたし、その点では気楽だったともいえます。
が、セミナーの開始時間が朝の9時などと早めだったうえに
会場がお台場だったこともあって、朝のスタートが早かったんです。
なので初めて、都内にホテルをとることになりました。
自宅から片道1時間ぐらいの場所とはいえ、
往復時間として毎日2時間が節約できるのは意外と大きかったです。
先生の接待で夕飯に同行したりもありましたから
睡眠時間を確保できたのは助かりました。
僕の仕事はワークショップ中に先生がホワイトボードに書いた内容を
その場で日本語に直して提示する担当。
通訳の方が口頭の作業に専念できるように、ということです。
あとは先生の送迎。
タクシーに同行するだけですが、
日本語が話せない先生を一人でタクシーに乗せるわけにもいきませんし、
支払いのことなんかも考えると送迎係は必要だったんでしょう。
おかげさまで僕自身は、先生と話す時間を多めにいただけました。
しかしながら、自分の興味で質問をしては先生に負担をかけそうですから
なるべく無難な話をしつつ、かつ先生が関心を持ちそうな
日本文化の話あたりに終始する、というのは意外と気を遣いました。
世界各国で講座をしているせいか、文化の違いにも興味があるようで
日本文化的な配慮についても実感ができる様子だったのも印象的です。
すべてを言葉にすることなく、行為や言葉の裏に込められた
相手への気配りや敬意を汲み取り、
それに対して同様の気配りで意図を伝え返す。
ちょうど茶道をやっている人たちが
作法に込められた意図を丁寧に感じ取りあいながら
間接的にお互いの気持ちを交流する、というような感じでしょうか。
アメリカ人でありながら、そのあたりを味わえる先生のようでした。
世界中を見て回っているのもあるでしょうが、
それ以上に人の心を理解しようというスタンスが大きいと思われます。
接待で同行した天ぷら屋でも、他のお客さんの様子を見ながら
その関係性なんかを観察から見立てて話したりしていましたし。
とはいえ、心理学の知識に当てはめて
客観的に「分析」や「診断」をするのとは違います。
その人がやっている行動から気持ちを汲み取り、
その人の内面を「分かろうとする」という主観的なスタンスです。
わざわざ相手の立場に入っていって、共感をして、状況理解に繋げる。
大学の先生には珍しい、実践的な人なんだと思われます。
実際、教授になるまでの経緯も異端だったそうです。
学会や教授会からの評価を求めて論文を書いて地位を高めるのではなく、
実社会で役に立つ情報を書籍で広めたり、
学生や企業と直接のワークショップで交流して成長を促したりするうちに
人気が出てきたから大学側も教授にせざるを得なくなった…
そんなことがあったんだとか。
アカデミックな世界に身を置きながらも
あえてアカデミックな人たちのほうに背を向け、
学生や社会のほうに向いて人と関わってきた人物。
もちろん、自分の伝えている手法を誰よりも多く実践し、
自らの内面と向き合ってきたとも言っていました。
だからこそ意図的に人と関わることができて、
相手の気持ちを汲み取りながらメッセージを届けることもできるんでしょう。
僕が付き人的に気を遣っていた日本文化的な意図についても
かなりの部分を汲み取ってくれていたようでした。
それに対して直接的に言葉でコメントをしてくれることもありましたし、
それに応えるような意図を間接的な表現で示してくれることもありました。
お互いに気を遣っていて、自覚的なコミュニケーションがなされていて、
それは漫然と気軽に過ごすタイプの時間ではありませんでしたが、反面
丁寧に心を込めた時間だったともいえるかもしれません。
いろいろな意味で貴重な時間を過ごさせていただきました。
ちなみに時間的余裕があるはずの都内のホテル滞在でしたが、
自分がセミナーをやっているのとは質の違う疲労感が大きくて
のんびりした時間にはなりませんでした。
疲れて眠るだけ、といった感じ。
ある日には、急に「講座中に動画を見せたい」という話になって
その内容の書き起こしと翻訳をホテルでやったりもしました。
こちらに関しては結局、睡眠時間がむしろ削られてしまう形。
まぁ、自宅に戻っていたら終わらなかった作業でしょうから
ホテルを取っていて大正解、といったところですが。
普段だったら電車で通うような場所に泊っていることも含め
なんだか非日常的な時間だった印象です。
10月末から11月の初めにかけて約一週間、
アメリカから招聘した先生のワークショップを手伝う機会がありました。
同じ内容の講座は過去にも開催していたため
事前準備として多くのことがあったわけではありません。
先生とも既に顔見知りでしたし、その点では気楽だったともいえます。
が、セミナーの開始時間が朝の9時などと早めだったうえに
会場がお台場だったこともあって、朝のスタートが早かったんです。
なので初めて、都内にホテルをとることになりました。
自宅から片道1時間ぐらいの場所とはいえ、
往復時間として毎日2時間が節約できるのは意外と大きかったです。
先生の接待で夕飯に同行したりもありましたから
睡眠時間を確保できたのは助かりました。
僕の仕事はワークショップ中に先生がホワイトボードに書いた内容を
その場で日本語に直して提示する担当。
通訳の方が口頭の作業に専念できるように、ということです。
あとは先生の送迎。
タクシーに同行するだけですが、
日本語が話せない先生を一人でタクシーに乗せるわけにもいきませんし、
支払いのことなんかも考えると送迎係は必要だったんでしょう。
おかげさまで僕自身は、先生と話す時間を多めにいただけました。
しかしながら、自分の興味で質問をしては先生に負担をかけそうですから
なるべく無難な話をしつつ、かつ先生が関心を持ちそうな
日本文化の話あたりに終始する、というのは意外と気を遣いました。
世界各国で講座をしているせいか、文化の違いにも興味があるようで
日本文化的な配慮についても実感ができる様子だったのも印象的です。
すべてを言葉にすることなく、行為や言葉の裏に込められた
相手への気配りや敬意を汲み取り、
それに対して同様の気配りで意図を伝え返す。
ちょうど茶道をやっている人たちが
作法に込められた意図を丁寧に感じ取りあいながら
間接的にお互いの気持ちを交流する、というような感じでしょうか。
アメリカ人でありながら、そのあたりを味わえる先生のようでした。
世界中を見て回っているのもあるでしょうが、
それ以上に人の心を理解しようというスタンスが大きいと思われます。
接待で同行した天ぷら屋でも、他のお客さんの様子を見ながら
その関係性なんかを観察から見立てて話したりしていましたし。
とはいえ、心理学の知識に当てはめて
客観的に「分析」や「診断」をするのとは違います。
その人がやっている行動から気持ちを汲み取り、
その人の内面を「分かろうとする」という主観的なスタンスです。
わざわざ相手の立場に入っていって、共感をして、状況理解に繋げる。
大学の先生には珍しい、実践的な人なんだと思われます。
実際、教授になるまでの経緯も異端だったそうです。
学会や教授会からの評価を求めて論文を書いて地位を高めるのではなく、
実社会で役に立つ情報を書籍で広めたり、
学生や企業と直接のワークショップで交流して成長を促したりするうちに
人気が出てきたから大学側も教授にせざるを得なくなった…
そんなことがあったんだとか。
アカデミックな世界に身を置きながらも
あえてアカデミックな人たちのほうに背を向け、
学生や社会のほうに向いて人と関わってきた人物。
もちろん、自分の伝えている手法を誰よりも多く実践し、
自らの内面と向き合ってきたとも言っていました。
だからこそ意図的に人と関わることができて、
相手の気持ちを汲み取りながらメッセージを届けることもできるんでしょう。
僕が付き人的に気を遣っていた日本文化的な意図についても
かなりの部分を汲み取ってくれていたようでした。
それに対して直接的に言葉でコメントをしてくれることもありましたし、
それに応えるような意図を間接的な表現で示してくれることもありました。
お互いに気を遣っていて、自覚的なコミュニケーションがなされていて、
それは漫然と気軽に過ごすタイプの時間ではありませんでしたが、反面
丁寧に心を込めた時間だったともいえるかもしれません。
いろいろな意味で貴重な時間を過ごさせていただきました。
ちなみに時間的余裕があるはずの都内のホテル滞在でしたが、
自分がセミナーをやっているのとは質の違う疲労感が大きくて
のんびりした時間にはなりませんでした。
疲れて眠るだけ、といった感じ。
ある日には、急に「講座中に動画を見せたい」という話になって
その内容の書き起こしと翻訳をホテルでやったりもしました。
こちらに関しては結局、睡眠時間がむしろ削られてしまう形。
まぁ、自宅に戻っていたら終わらなかった作業でしょうから
ホテルを取っていて大正解、といったところですが。
普段だったら電車で通うような場所に泊っていることも含め
なんだか非日常的な時間だった印象です。
2019年10月13日
比べると気づける
数年前までは海外ドラマの『メンタリスト』のDVDが
一年に一度、1シーズン分として発売されていて、
これを毎年購入して見ていたんです。
内容はもちろん毎回、展開がありますが
メインとなる登場人物は基本的に同じ。
ボキャブラリーも似通ったものになりやすいと思われます。
なので、一年に一度、このDVDシリーズを見ると
自分の英語のリスニング力をチェックできていたんです。
一年ぶりに同じシリーズに接したとき
前よりも内容が英語のまま入ってきやすい。
となると聴解力が上がっているのではないか。
そんな判断材料でもあったわけです。
ところが最近は海外ドラマのDVDを買うこともありません。
たまにアメリカに行ってテレビを見れば
確かに英語のチェックにはなります。
ただ、これは比較が難しいんです。
同じシリーズだから比べる基準があったんだと実感します。
また先日も海外のトレーナーを招待して
そのコーディネーター役をやったんですが、
こちらもやはり初対面なので対比は難しい。
むしろ事務的なやりとりをするための日常的なボキャブラリーが
使えるものになっていないためにスムーズでない体験をして
そちらばかりが際立って印象に残ったりもしました。
というわけで自分の英語について振り返る機会もなく、
英語力が伸びているのか自覚できていなかった、という話です。
で最近、11月に再来日するアメリカ人講師の講座について
テキストの一部をチェックする機会があったんです。
そのテキストも翻訳は、前書きを除いて僕が数年前にやりました。
もうハッキリとは覚えていないため、前書きの日本語を見たとき
「こんな訳を自分がするかな?」と感じることがあったんですが、
調べてみたら、その部分に自分の関与はありませんでした。
むしろ本文に入ると、なんとなく見覚えがある。
完成版を見て違和感のあるところをチェックすると、
自分の翻訳とは少し表現が変わっている部分でした。
最後にまとまて編集をした方が、
用語の統一や日本語の理解しやすさのために
手を入れたんだろうと思われます。
そう考えると、意外と記憶に残っているものなんだと思えました。
英文のほうに変更点があるということで
一通り元の文章をチェックしながら見直してみると、
自分の日本語訳なので、奇妙なところはすぐに見つかります。
こんな訳をするかな?と思って
古いテキストの英文と、新しい英文とを比べると
その部分に変更が見つかる。
そんな感じでチェックを進めました。
すると、そもそも英語の訳のニュアンスとして
あまりシックリこないところもあったんです。
英文のほうで変更はないけれど、
数年前の自分の訳の仕方がイマイチ。
その理由で手を入れ直した部分があります。
これは数年前に自分が翻訳したものだから
今の自分と対比させることができた、と言えそうです。
英語の理解力として、数年前よりも、いくらかは
細かい意味を捉えられるようになったのかもしれません。
当時は馴染みがなくて
適切な日本語を見つけられなかった英語のフレーズも、
ここ数年のうちに何度も接して、自然と意味を掴んでいた…
そんな可能性もありそうです。
いずれにしても、自分のやったことを改めてチェックすると
改善点の形で「新たに気づけるようになったこと」が
浮き彫りになってくるようです。
おそらくこれは翻訳だけではないでしょう。
自分が英語で書いた文章も何年後かにチェックすると
自分の英語力の伸びを自覚する材料になりそうです。
語学だけにも限らないはずです。
自分が過去に作った資料を数年後に見直す、なんていうのも
自分の理解の深まりを知る機会になるんじゃないでしょうか。
一年に一度、1シーズン分として発売されていて、
これを毎年購入して見ていたんです。
内容はもちろん毎回、展開がありますが
メインとなる登場人物は基本的に同じ。
ボキャブラリーも似通ったものになりやすいと思われます。
なので、一年に一度、このDVDシリーズを見ると
自分の英語のリスニング力をチェックできていたんです。
一年ぶりに同じシリーズに接したとき
前よりも内容が英語のまま入ってきやすい。
となると聴解力が上がっているのではないか。
そんな判断材料でもあったわけです。
ところが最近は海外ドラマのDVDを買うこともありません。
たまにアメリカに行ってテレビを見れば
確かに英語のチェックにはなります。
ただ、これは比較が難しいんです。
同じシリーズだから比べる基準があったんだと実感します。
また先日も海外のトレーナーを招待して
そのコーディネーター役をやったんですが、
こちらもやはり初対面なので対比は難しい。
むしろ事務的なやりとりをするための日常的なボキャブラリーが
使えるものになっていないためにスムーズでない体験をして
そちらばかりが際立って印象に残ったりもしました。
というわけで自分の英語について振り返る機会もなく、
英語力が伸びているのか自覚できていなかった、という話です。
で最近、11月に再来日するアメリカ人講師の講座について
テキストの一部をチェックする機会があったんです。
そのテキストも翻訳は、前書きを除いて僕が数年前にやりました。
もうハッキリとは覚えていないため、前書きの日本語を見たとき
「こんな訳を自分がするかな?」と感じることがあったんですが、
調べてみたら、その部分に自分の関与はありませんでした。
むしろ本文に入ると、なんとなく見覚えがある。
完成版を見て違和感のあるところをチェックすると、
自分の翻訳とは少し表現が変わっている部分でした。
最後にまとまて編集をした方が、
用語の統一や日本語の理解しやすさのために
手を入れたんだろうと思われます。
そう考えると、意外と記憶に残っているものなんだと思えました。
英文のほうに変更点があるということで
一通り元の文章をチェックしながら見直してみると、
自分の日本語訳なので、奇妙なところはすぐに見つかります。
こんな訳をするかな?と思って
古いテキストの英文と、新しい英文とを比べると
その部分に変更が見つかる。
そんな感じでチェックを進めました。
すると、そもそも英語の訳のニュアンスとして
あまりシックリこないところもあったんです。
英文のほうで変更はないけれど、
数年前の自分の訳の仕方がイマイチ。
その理由で手を入れ直した部分があります。
これは数年前に自分が翻訳したものだから
今の自分と対比させることができた、と言えそうです。
英語の理解力として、数年前よりも、いくらかは
細かい意味を捉えられるようになったのかもしれません。
当時は馴染みがなくて
適切な日本語を見つけられなかった英語のフレーズも、
ここ数年のうちに何度も接して、自然と意味を掴んでいた…
そんな可能性もありそうです。
いずれにしても、自分のやったことを改めてチェックすると
改善点の形で「新たに気づけるようになったこと」が
浮き彫りになってくるようです。
おそらくこれは翻訳だけではないでしょう。
自分が英語で書いた文章も何年後かにチェックすると
自分の英語力の伸びを自覚する材料になりそうです。
語学だけにも限らないはずです。
自分が過去に作った資料を数年後に見直す、なんていうのも
自分の理解の深まりを知る機会になるんじゃないでしょうか。
2019年09月21日
【札幌開催セミナー】第3回実践心理学研修会
10月26日、27日の土日に、札幌で講座をします。
(詳細はこちら>>
メインテーマは『心理分析』です。
心理分析といっても精神分析のようなものとは異なります。
分析という観点では共通する部分もありますが
もっとも大きく異なるのは「心」そのものの取り扱いです。
基本的に「心」を扱うものは、「心」を1つのモノと捉えます。
1つの身体に1つの心。
そういう発想です。
そしてその1つの心の性質を見ようとするわけです。
「こういう人には、どんな心理があるのだろうか?」と。
ここが人の心を理解するのを難しくする要因です。
心を1つのものと想定すると、
1つのものとして一貫した性質を知りたくなります。
一人の人なのだから「この人は〜な人」というパターンは変わらない。
そんな前提が生まれがちです。
しかし実際には、その時々で違ったパターンの行動をすることもあります。
いつもと違うとか、地雷を踏んで感情が激変するとか。
昨日と言っていることが違うとか、意外な一面が出るとか。
「え?こんなはずでは…」と、驚きとともに
パターンが崩れることに戸惑うわけです。
そして「あの人の気持ちが分からない」という結論に至る、と。
「いったい、あの人の本音は何なんだ?」と分からなくなるんです。
1つの本音というものを探すから見つからないんです。
そうではなくて、「心は1つのもの」と想定する代わりに
「心は集合体」と想定する。
心という容れ物の中に、様々な意見をもった役割が集まっている。
これをNLPでは『パート』という呼び方をしています。
喩えるなら、中学校の1クラスのようなものです。
様々な生徒がいます。
それぞれが違った意見を持っています。
そして場面ごとに主に活躍する生徒が決まっているんです。
授業中によく発言する勉強の得意な子、
サッカーのときに司令塔役をやる子、
生徒会のときにクラスの意見を提出する学級委員、
他校とケンカになったときに先頭に立つ番長…。
違った性格、違った特技をもった生徒が
ある場面で前面に出てくる感じです。
それぞれの意見や考えが違っても不思議ではありませんし、
まったく違った性格をしていても不思議ではないでしょう。
個人の心と、中学校の1クラスが異なるのは
中学校だと全員がバラバラに同じタイミングで話すことができますが、
個人の場合には口が1つしかないので同時に複数の意見は話せない、
ということです。
だから生徒が一人ずつマイクを渡し替えて
そのそきに前面に出ている生徒が話をする形になる。
一人ずつしか意見を聞くことができないクラスのようなイメージです。
決まった条件になると前面に出てくる生徒が入れ替わるんです。
そのとき、さっきまでと意見や態度が変わって聞こえます。
「あれ、急に別人のようだ…」と。
別人なんです。
別パートなんです。
1つの本音を探すのではなく、
登場してくる「心の中の担当者」全員分について
それぞれ意見を聞き分ける。
そうやって、心という容れ物の中で展開している
「動き」を捉えます。
これが今回紹介する心理分析の第一歩です。
他の種類の心理分析やプロファイリングと異なる特徴です。
そして心を集合体として、その中での動きを捉えられたら、
それぞれの担当者の心理分析をします。
では、このときの心理分析で何をするか?
原則的に心理分析をするのは、理解したいからでしょう。
相手のことを理解したい。
人の気持ちを知りたい。
その先には多くの場合
「理解できれば、うまく対応できるはずだ」
という見込みを持っているはずです。
つまり自分が望む結果に繋がるように、相手に働きかけたい、と。
セールスであれば、買ってもらう方向へ。
頼みごとをするのであれば、引き受けてもらえる方向へ。
クレーム対応であれば、落ち着いて納得してもらえる方向へ。
部下に指示するのであれば、指示通りに動いてもらえる方向へ。
子供との関りであれば、素直に言うことを聞いてもらえる方向へ。
気まずい間柄であれば、仲良く打ち解けられる方向へ。
…さまざまな思惑があるはずです。
相手の行動が、自分の望むほうへ向いてくれるように働きかける。
これを『動機づける』と言います。
英語でいうと motivate ですから、
「動機づけること」が「motivation」となります。
よく日本語では「モチベーションを高める」のような言い方をしますが、
それはまさに、
自分の望む方向へ相手を『動機づける』
ことだと言っていいでしょう。
ここで本講座が、心理分析とモチベーションを同時に扱う理由です。
相手の心理を理解して、相手を適切に動機づける。
少なくとも、自分の想定通りに動かない人について
その心理を理解することができる。
そういう趣旨で講座を進めます。
動機づけをゴールとして相手の心理をするのだとしたら、
では具体的に何を「分析」して、何を理解すればいいのでしょうか?
たとえば典型的な心理分析として挙げられそうな精神分析では
『欲求』や『原因』を理解しようとします。
欲求とは、人間に備わった基本的な性質ということですから、
「人間は基本的にこういうことを求めて行動する」のような情報として
理解をするうえでの土台となる知識になります。
原因はストーリー展開です。
「こういうことがあった。だから、こういう風になった。」
のように妥当な因果関係を見つけようとするやり方です。
現在の心理について、そうなるに至った過去の出来事を見つけて
「過去にこんな体験をしていれば、今こういう考えになるのは当然だ」
という形で分析を行うわけです。
あるいはプロファイリングなんかも典型的な心理分析のイメージでしょう。
こちらはパターンを把握します。
行動パターン、思考パターンなど、
その人の中にある決まった傾向を調べる。
そうすると、
「この傾向の人は、こういうことがあると、こんな反応をする」
などの予測がつくようになります。
原因は気にせず、とにかく傾向が調べられればいい、というスタンスです。
プロファイリングの場合は、認識できるパターンの数が多いほど
精度高く人を分析することが可能になります。
なのでコンピューターを使って数百もの行動パターンを把握して
その人の行動を予測しようとするようなものまであります。
実用的には個人が把握できる数には限度がありますから
主な数パターンから、十数個のパターンぐらいを見ようとする
というのが一般的でしょう。
それに対して、今回の講座で行う心理分析は
原因分析や欲求の理解でもなければ、
複数のパターンを調査するプロファイリングでもありません。
『目的』の分析をします。
そのような振る舞いをする目的を理解しようとするんです。
「何のために?」と。
相手の振る舞いの目的が分かれば、
その目的を満たすように対応することで
相手の気持ちを落ち着けることができます。
そもそも動機づけをするときには
「こちらが望む方向へ」動いてもらう狙いがありますが、
その前提には「なかなか望むように動いてくれない」状況があります。
なぜ動いてくれないのか?というと、それは
相手には相手の望む方向があるからです。
自分と相手、それぞれが別のことを望んでいる。
そこで自分の望む方向にだけ無理やり動かそうというのは
いささか都合が良すぎます。
相手には相手の言い分があり、相手の望むことがある。
その相手の望んでいることが「相手の目的」です。
なぜこちらの望む方向へ動かないのか?
その心理として「そちらへ動かない目的」を理解する必要があります。
目的を理解できれば、その望んでいることを満たしてあげられる。
相手の望んでいることを満たしつつ、
こちらの望んでいることを満たしてもらう。
相手にとっても自分にとっても望む方向に動いてもらうわけですから
納得して動いてくれるようになる可能性は格段に高まります。
だから相手の振る舞いの『目的』を知りたいんです。
相手の望んでいることを満たせるように心理分析をしたいんです。
原因分析だと、これは簡単には成り立ちません。
原因分析が適切にできると、自分の側に納得感が起こります。
現状の振る舞いの理由が妥当なものに見えてくる。
「そういう事情があったんなら当然だなぁ」と。
自分の望むように動いてくれていない現状が
「それだったら、やらなくて当然か」と納得してしまう。
諦めがつくという意味では役立ちますが
望む方向には進んでいきません。
原因分析をベースに動機づけようとしたら、そこからもう一度
「だったら、どうしたら動いてもらえるだろうか?」と
効果的な対処法を新たに考え始める必要が出てきます。
それが目的分析だと、もっとシンプルなんです。
最初から相手が望んでいることを理解しようとする。
理解できたら、その望んでいることを満たしてあげればいい。
分析結果と対応が直結しているところが大きなメリットだといえます。
ということで、この講座の趣旨は…。
自分が望むほうへ相手に動いてもらいやすくするために
相手の現状の心理を分析する。
そのとき心という容れ物の中で起こっている「動き」を捉え
それぞれの担当者に注目する。
その担当者の「目的」を捉える。
そしてその目的を満たすように、自分の関わり方を調節する。
…このようなものだといえます。
理解するために必要な知識を紹介することもありますが
大部分は実習の予定です。
さまざまな実習を通して経験的にコツを身につけていただく狙いです。
講座に参加するだけで巧みな分析ができるまでは到達できないでしょうが、
最初の一歩としては相当な”大股の一歩”を踏み出すことにはなるはずです。
あとはどれだけ実践を重ねるか。
トレーニング法は講座中に紹介する実習そのもので十分でしょう。
必要なレベルまで、人の心を理解する技術を高めて頂ければと思います。
そんな講座です。
詳しい情報とお申込みはこちらをご覧ください。
https://hsmana.com/kenshukai3?fbclid=IwAR19JT-ull1MvfpvmqvBEzMBGehAh8EHOGNbP8XqvEJwq3w_09Pywu_1Te0
(詳細はこちら>>
メインテーマは『心理分析』です。
心理分析といっても精神分析のようなものとは異なります。
分析という観点では共通する部分もありますが
もっとも大きく異なるのは「心」そのものの取り扱いです。
基本的に「心」を扱うものは、「心」を1つのモノと捉えます。
1つの身体に1つの心。
そういう発想です。
そしてその1つの心の性質を見ようとするわけです。
「こういう人には、どんな心理があるのだろうか?」と。
ここが人の心を理解するのを難しくする要因です。
心を1つのものと想定すると、
1つのものとして一貫した性質を知りたくなります。
一人の人なのだから「この人は〜な人」というパターンは変わらない。
そんな前提が生まれがちです。
しかし実際には、その時々で違ったパターンの行動をすることもあります。
いつもと違うとか、地雷を踏んで感情が激変するとか。
昨日と言っていることが違うとか、意外な一面が出るとか。
「え?こんなはずでは…」と、驚きとともに
パターンが崩れることに戸惑うわけです。
そして「あの人の気持ちが分からない」という結論に至る、と。
「いったい、あの人の本音は何なんだ?」と分からなくなるんです。
1つの本音というものを探すから見つからないんです。
そうではなくて、「心は1つのもの」と想定する代わりに
「心は集合体」と想定する。
心という容れ物の中に、様々な意見をもった役割が集まっている。
これをNLPでは『パート』という呼び方をしています。
喩えるなら、中学校の1クラスのようなものです。
様々な生徒がいます。
それぞれが違った意見を持っています。
そして場面ごとに主に活躍する生徒が決まっているんです。
授業中によく発言する勉強の得意な子、
サッカーのときに司令塔役をやる子、
生徒会のときにクラスの意見を提出する学級委員、
他校とケンカになったときに先頭に立つ番長…。
違った性格、違った特技をもった生徒が
ある場面で前面に出てくる感じです。
それぞれの意見や考えが違っても不思議ではありませんし、
まったく違った性格をしていても不思議ではないでしょう。
個人の心と、中学校の1クラスが異なるのは
中学校だと全員がバラバラに同じタイミングで話すことができますが、
個人の場合には口が1つしかないので同時に複数の意見は話せない、
ということです。
だから生徒が一人ずつマイクを渡し替えて
そのそきに前面に出ている生徒が話をする形になる。
一人ずつしか意見を聞くことができないクラスのようなイメージです。
決まった条件になると前面に出てくる生徒が入れ替わるんです。
そのとき、さっきまでと意見や態度が変わって聞こえます。
「あれ、急に別人のようだ…」と。
別人なんです。
別パートなんです。
1つの本音を探すのではなく、
登場してくる「心の中の担当者」全員分について
それぞれ意見を聞き分ける。
そうやって、心という容れ物の中で展開している
「動き」を捉えます。
これが今回紹介する心理分析の第一歩です。
他の種類の心理分析やプロファイリングと異なる特徴です。
そして心を集合体として、その中での動きを捉えられたら、
それぞれの担当者の心理分析をします。
では、このときの心理分析で何をするか?
原則的に心理分析をするのは、理解したいからでしょう。
相手のことを理解したい。
人の気持ちを知りたい。
その先には多くの場合
「理解できれば、うまく対応できるはずだ」
という見込みを持っているはずです。
つまり自分が望む結果に繋がるように、相手に働きかけたい、と。
セールスであれば、買ってもらう方向へ。
頼みごとをするのであれば、引き受けてもらえる方向へ。
クレーム対応であれば、落ち着いて納得してもらえる方向へ。
部下に指示するのであれば、指示通りに動いてもらえる方向へ。
子供との関りであれば、素直に言うことを聞いてもらえる方向へ。
気まずい間柄であれば、仲良く打ち解けられる方向へ。
…さまざまな思惑があるはずです。
相手の行動が、自分の望むほうへ向いてくれるように働きかける。
これを『動機づける』と言います。
英語でいうと motivate ですから、
「動機づけること」が「motivation」となります。
よく日本語では「モチベーションを高める」のような言い方をしますが、
それはまさに、
自分の望む方向へ相手を『動機づける』
ことだと言っていいでしょう。
ここで本講座が、心理分析とモチベーションを同時に扱う理由です。
相手の心理を理解して、相手を適切に動機づける。
少なくとも、自分の想定通りに動かない人について
その心理を理解することができる。
そういう趣旨で講座を進めます。
動機づけをゴールとして相手の心理をするのだとしたら、
では具体的に何を「分析」して、何を理解すればいいのでしょうか?
たとえば典型的な心理分析として挙げられそうな精神分析では
『欲求』や『原因』を理解しようとします。
欲求とは、人間に備わった基本的な性質ということですから、
「人間は基本的にこういうことを求めて行動する」のような情報として
理解をするうえでの土台となる知識になります。
原因はストーリー展開です。
「こういうことがあった。だから、こういう風になった。」
のように妥当な因果関係を見つけようとするやり方です。
現在の心理について、そうなるに至った過去の出来事を見つけて
「過去にこんな体験をしていれば、今こういう考えになるのは当然だ」
という形で分析を行うわけです。
あるいはプロファイリングなんかも典型的な心理分析のイメージでしょう。
こちらはパターンを把握します。
行動パターン、思考パターンなど、
その人の中にある決まった傾向を調べる。
そうすると、
「この傾向の人は、こういうことがあると、こんな反応をする」
などの予測がつくようになります。
原因は気にせず、とにかく傾向が調べられればいい、というスタンスです。
プロファイリングの場合は、認識できるパターンの数が多いほど
精度高く人を分析することが可能になります。
なのでコンピューターを使って数百もの行動パターンを把握して
その人の行動を予測しようとするようなものまであります。
実用的には個人が把握できる数には限度がありますから
主な数パターンから、十数個のパターンぐらいを見ようとする
というのが一般的でしょう。
それに対して、今回の講座で行う心理分析は
原因分析や欲求の理解でもなければ、
複数のパターンを調査するプロファイリングでもありません。
『目的』の分析をします。
そのような振る舞いをする目的を理解しようとするんです。
「何のために?」と。
相手の振る舞いの目的が分かれば、
その目的を満たすように対応することで
相手の気持ちを落ち着けることができます。
そもそも動機づけをするときには
「こちらが望む方向へ」動いてもらう狙いがありますが、
その前提には「なかなか望むように動いてくれない」状況があります。
なぜ動いてくれないのか?というと、それは
相手には相手の望む方向があるからです。
自分と相手、それぞれが別のことを望んでいる。
そこで自分の望む方向にだけ無理やり動かそうというのは
いささか都合が良すぎます。
相手には相手の言い分があり、相手の望むことがある。
その相手の望んでいることが「相手の目的」です。
なぜこちらの望む方向へ動かないのか?
その心理として「そちらへ動かない目的」を理解する必要があります。
目的を理解できれば、その望んでいることを満たしてあげられる。
相手の望んでいることを満たしつつ、
こちらの望んでいることを満たしてもらう。
相手にとっても自分にとっても望む方向に動いてもらうわけですから
納得して動いてくれるようになる可能性は格段に高まります。
だから相手の振る舞いの『目的』を知りたいんです。
相手の望んでいることを満たせるように心理分析をしたいんです。
原因分析だと、これは簡単には成り立ちません。
原因分析が適切にできると、自分の側に納得感が起こります。
現状の振る舞いの理由が妥当なものに見えてくる。
「そういう事情があったんなら当然だなぁ」と。
自分の望むように動いてくれていない現状が
「それだったら、やらなくて当然か」と納得してしまう。
諦めがつくという意味では役立ちますが
望む方向には進んでいきません。
原因分析をベースに動機づけようとしたら、そこからもう一度
「だったら、どうしたら動いてもらえるだろうか?」と
効果的な対処法を新たに考え始める必要が出てきます。
それが目的分析だと、もっとシンプルなんです。
最初から相手が望んでいることを理解しようとする。
理解できたら、その望んでいることを満たしてあげればいい。
分析結果と対応が直結しているところが大きなメリットだといえます。
ということで、この講座の趣旨は…。
自分が望むほうへ相手に動いてもらいやすくするために
相手の現状の心理を分析する。
そのとき心という容れ物の中で起こっている「動き」を捉え
それぞれの担当者に注目する。
その担当者の「目的」を捉える。
そしてその目的を満たすように、自分の関わり方を調節する。
…このようなものだといえます。
理解するために必要な知識を紹介することもありますが
大部分は実習の予定です。
さまざまな実習を通して経験的にコツを身につけていただく狙いです。
講座に参加するだけで巧みな分析ができるまでは到達できないでしょうが、
最初の一歩としては相当な”大股の一歩”を踏み出すことにはなるはずです。
あとはどれだけ実践を重ねるか。
トレーニング法は講座中に紹介する実習そのもので十分でしょう。
必要なレベルまで、人の心を理解する技術を高めて頂ければと思います。
そんな講座です。
詳しい情報とお申込みはこちらをご覧ください。
https://hsmana.com/kenshukai3?fbclid=IwAR19JT-ull1MvfpvmqvBEzMBGehAh8EHOGNbP8XqvEJwq3w_09Pywu_1Te0
2019年09月11日
干からびる理由
食事を変えてから「痩せた?」と聞かれることが増えてきました。
それで体重を測ってみることに。
まあ、少し減ったようです。
が、それ以上にビックリしたことがありました。
週末に2日セミナーをやると、
月曜日の体重が1.5キロぐらい減っているんです。
セミナーの日も普通に食べます。
むしろ食べる量は増えているぐらい。
何より、2日で1.5キロも肉が減るわけはなさそうですから、
おそらくは水分で体重が変わるんでしょう。
実際、一日休むと、次の日には戻りますし。
どおりでセミナー翌日は全身がカサカサになっているわけです。
しかしながら、セミナーの日は水分も採っているんです。
それもかなり多めに。
食べ物の分を除いて、飲み物として3リットル以上。
それが汗と尿で排泄されてしまうようです。
体重が減るということは、まだ足りないのか…。
でも飲んでとしても出てしまいそうな気がします。
そもそも代謝が変わるんでしょう。
セミナーのときは自律神経の働きが変わるのかもしれません。
まあ、たいした問題ではありませんが。
それで体重を測ってみることに。
まあ、少し減ったようです。
が、それ以上にビックリしたことがありました。
週末に2日セミナーをやると、
月曜日の体重が1.5キロぐらい減っているんです。
セミナーの日も普通に食べます。
むしろ食べる量は増えているぐらい。
何より、2日で1.5キロも肉が減るわけはなさそうですから、
おそらくは水分で体重が変わるんでしょう。
実際、一日休むと、次の日には戻りますし。
どおりでセミナー翌日は全身がカサカサになっているわけです。
しかしながら、セミナーの日は水分も採っているんです。
それもかなり多めに。
食べ物の分を除いて、飲み物として3リットル以上。
それが汗と尿で排泄されてしまうようです。
体重が減るということは、まだ足りないのか…。
でも飲んでとしても出てしまいそうな気がします。
そもそも代謝が変わるんでしょう。
セミナーのときは自律神経の働きが変わるのかもしれません。
まあ、たいした問題ではありませんが。
2019年09月07日
調べれば見つかる
調べてみると世の中には便利なものがあるんですね。
インターネットがあるからこそ見つけられるわけですが、
今のような情報化がなされる前には
詳しい人に直接教えてもらうぐらいしか方法が無かったのかもしれません。
僕の出張用のカバンには、
移動中に使う用途のイヤホンを入れっぱなしにしてあります。
随分と前に購入して、普段使いには少しだけ不便なものだったので
使用頻度の少ない出張用にしてしまった形です。
どうもケーブルが細いのか、クルクルと丸まってしまったり、
絡み合ったりして使い勝手がよろしくないんです。
そもそも音色へのコダワリはあまりないので
高級品を買う必要もないんですが、
丸まったり捩じれたりしたケーブルが首に当たるのがどうも好きではない。
それでも新幹線とか飛行機の中だけのつもりだったので
我慢して使い続けていました。
ただ最近は、コンビニでも安いイヤホンが売っているぐらいですし、
安くてもケーブルが丈夫そうなのがありますから
わざわざ不快な思いをし続ける必要もなさそうに思ってきました。
それで少しだけネットでイヤホンを調べてみたんです。
主な用途は出張を中心にした長距離移動の最中。
乗り物の中が前提です。
そうすると、ノイズキャンセリング機能というのが良さそうな話が見つかります。
とくに飛行機の中だと、常になり続けている「ゴーッ」という低音が
大部分をキャンセルして静かになるとのことでした。
体で感じる振動だけでなく、耳から感じる振動もストレス要因らしく
人によってはノイズキャンセリングのイヤホンやヘッドホンを使うだけで
疲労感が激減するらしいんです。
これは試してみたい。
ヘッドホンは耳が圧迫されて痛くなるので
イヤホン形式で調べてみると、
比較的リーズナブルなものもあるようでした。
ここ数年は、年に1,2回、海外に行く機会がありますから
長時間のフライトにも望ましいのではないかと思えてきます。
ひょっとしたら飛行機の中で寝られたりして…なんて
甘い期待も少し持っているところです。
で、飛行機と関係させながら気にして調べ続けていると
飛行機用のイヤホンジャックなんてのも見つかりました。
国際線の場合、だいたいは、各座席に専用モニターがついています。
その音声は、同じく各座席のイヤホンジャックから
ヘッドホンやイヤホンを使って聞く形式です。
前述のとおり、僕はヘッドホンで圧迫されて耳が痛くなるのが苦手です。
2時間の映画一本をヘッドホン使用で見ようものなら
その痛みから高確率で片頭痛に発展するんです。
なので通常は自分のイヤホンを使います。
ところが、飛行機の種類によっては
座席に設定されているイヤホンの差込口が2穴のことがあります。
普通のイヤホンジャックは一本の棒ですが、
飛行機によっては日本の棒が差し込まれる形なんです。
先端が枝分かれしている、と。
そこに普通のイヤホンを差し込むと
音が片耳からしか聞こえません。
2つの穴が、それぞれの耳の音に対応しているんでしょう。
それでステレオ音声を作り出す仕組みなんだと思います。
厳密には、片方が普通の音量で、もう一方がすごく小さい音
なだけですから、まったく映画が楽しめないわけではありません。
なので僕は音質が悪くても我慢して
片耳メインでイヤホンを使っていました。
そうやって長時間のフライトの間、映画を見ていたわけです。
しかしながら世の中には、
飛行機の2穴の差込口に対応した変換プラグが存在するようです。
これを接続すれば、普通のイヤホンを使って
飛行機のモニター用の音声をステレオで両耳で聞くことができる。
しかも数百円程度です。
別に新発明なわけでもないんでしょう。
ただ僕が知らなかっただけ。
それで僕は数年にわたって、片耳の音で何時間も我慢していたんです。
知らないだけで損をするというか、
知っていさえすれば簡単に対応できたというか。
調べてみれば便利なものがあるんだ、という話です。
これとノイズキャンセリングのイヤホンを組み合わせたら
もしかすると国際線の飛行機移動も随分と快適になるのではないか…
そんなことを想像して、少し楽しみになってきています。
自分が思いついて対処する範囲なんて限られているものなんでしょう。
詳しい人だったら簡単に、もっと効果的な解決策を知っているかもしれない。
自分の思いつく「その場しのぎ」に固執せず、
よりよい解決策を探してみるのも良いような気がします。
インターネットがあるからこそ見つけられるわけですが、
今のような情報化がなされる前には
詳しい人に直接教えてもらうぐらいしか方法が無かったのかもしれません。
僕の出張用のカバンには、
移動中に使う用途のイヤホンを入れっぱなしにしてあります。
随分と前に購入して、普段使いには少しだけ不便なものだったので
使用頻度の少ない出張用にしてしまった形です。
どうもケーブルが細いのか、クルクルと丸まってしまったり、
絡み合ったりして使い勝手がよろしくないんです。
そもそも音色へのコダワリはあまりないので
高級品を買う必要もないんですが、
丸まったり捩じれたりしたケーブルが首に当たるのがどうも好きではない。
それでも新幹線とか飛行機の中だけのつもりだったので
我慢して使い続けていました。
ただ最近は、コンビニでも安いイヤホンが売っているぐらいですし、
安くてもケーブルが丈夫そうなのがありますから
わざわざ不快な思いをし続ける必要もなさそうに思ってきました。
それで少しだけネットでイヤホンを調べてみたんです。
主な用途は出張を中心にした長距離移動の最中。
乗り物の中が前提です。
そうすると、ノイズキャンセリング機能というのが良さそうな話が見つかります。
とくに飛行機の中だと、常になり続けている「ゴーッ」という低音が
大部分をキャンセルして静かになるとのことでした。
体で感じる振動だけでなく、耳から感じる振動もストレス要因らしく
人によってはノイズキャンセリングのイヤホンやヘッドホンを使うだけで
疲労感が激減するらしいんです。
これは試してみたい。
ヘッドホンは耳が圧迫されて痛くなるので
イヤホン形式で調べてみると、
比較的リーズナブルなものもあるようでした。
ここ数年は、年に1,2回、海外に行く機会がありますから
長時間のフライトにも望ましいのではないかと思えてきます。
ひょっとしたら飛行機の中で寝られたりして…なんて
甘い期待も少し持っているところです。
で、飛行機と関係させながら気にして調べ続けていると
飛行機用のイヤホンジャックなんてのも見つかりました。
国際線の場合、だいたいは、各座席に専用モニターがついています。
その音声は、同じく各座席のイヤホンジャックから
ヘッドホンやイヤホンを使って聞く形式です。
前述のとおり、僕はヘッドホンで圧迫されて耳が痛くなるのが苦手です。
2時間の映画一本をヘッドホン使用で見ようものなら
その痛みから高確率で片頭痛に発展するんです。
なので通常は自分のイヤホンを使います。
ところが、飛行機の種類によっては
座席に設定されているイヤホンの差込口が2穴のことがあります。
普通のイヤホンジャックは一本の棒ですが、
飛行機によっては日本の棒が差し込まれる形なんです。
先端が枝分かれしている、と。
そこに普通のイヤホンを差し込むと
音が片耳からしか聞こえません。
2つの穴が、それぞれの耳の音に対応しているんでしょう。
それでステレオ音声を作り出す仕組みなんだと思います。
厳密には、片方が普通の音量で、もう一方がすごく小さい音
なだけですから、まったく映画が楽しめないわけではありません。
なので僕は音質が悪くても我慢して
片耳メインでイヤホンを使っていました。
そうやって長時間のフライトの間、映画を見ていたわけです。
しかしながら世の中には、
飛行機の2穴の差込口に対応した変換プラグが存在するようです。
これを接続すれば、普通のイヤホンを使って
飛行機のモニター用の音声をステレオで両耳で聞くことができる。
しかも数百円程度です。
別に新発明なわけでもないんでしょう。
ただ僕が知らなかっただけ。
それで僕は数年にわたって、片耳の音で何時間も我慢していたんです。
知らないだけで損をするというか、
知っていさえすれば簡単に対応できたというか。
調べてみれば便利なものがあるんだ、という話です。
これとノイズキャンセリングのイヤホンを組み合わせたら
もしかすると国際線の飛行機移動も随分と快適になるのではないか…
そんなことを想像して、少し楽しみになってきています。
自分が思いついて対処する範囲なんて限られているものなんでしょう。
詳しい人だったら簡単に、もっと効果的な解決策を知っているかもしれない。
自分の思いつく「その場しのぎ」に固執せず、
よりよい解決策を探してみるのも良いような気がします。
2019年09月02日
通訳に向いているかどうか
インターネットの検索結果が広告内容と関連するのは
もうすっかり当たり前になった感じもしますが、
広告の閲覧履歴なんかも、次の広告表示に影響するようです。
スマホでうっかり触ってしまって偶然に広告を開いてしまったりすると
その後、似たような内容のものとして表示されたりしますし。
僕の場合、外国語関連の検索をしたりすることが多く、
自然と広告にも外国語のものが多い印象を受けます。
そうはいっても英語のニーズの高さは
他の外国語と比べものになりませんから、
表示されてくる広告も当然、英語関連ばかり。
勉強法やら英語コーチングやら、英会話カフェやら、スクールやら。
先日は通訳学校の広告も出てきました。
英語力を土台から高める、という観点では
通訳のトレーニングは効果的かもしれないと感じるところもあります。
実際、チョット興味があるんです。
一方で、英語と日本語が常に行ったり来たりする状態になっていると
切り替えがどうなるのか、という心配もあります。
「通訳モード」みたいなのが出来上がるのかもしれませんが
普段、英語だけ、日本語だけを話しているときには
どういう感じになるんでしょうか?
僕が見ている感じでは、通訳をやっている人には
NLP的にいうと、1つの体験にアソシエイトしやすく
同時に抽象度の高い作業に意識が向きやすい傾向がありそうな印象です。
目の前のことに集中することができて、
しかも法則やパターンとして持っているものを
堅実に使い続けることができる。
また、要領がよくて、瞬間的にポイントを掴む能力にも長けた傾向です。
細かいことを考えすぎて進めなくなるタイプではない感じ。
実際、通訳をしている最中に、
「もっとこっちのニュアンスのほうが近いかも…」
なんて気にしている時間的余裕はないのかもしれません。
一字一句を覚えて、翻訳をするわけでもないようですし。
話の内容を押さえて、それに対応する日本語の文章に変換する。
その意味で、通訳は「translator」ではなく
「interpreter」と呼ばれるのかもしれません。
フランス語からスペイン語のように、近い言語であれば
単語と単語で一対一の変換を行って、
同じ構文を使って正確な翻訳作業もできる可能性はありそうですが、
日本語と英語のように文法的にも単語としても大きく異なる言語では
会話の最中に「翻訳」をすることは困難だと想像されます。
むしろ意味合いを理解して、元の意味合いに近い内容を
日本語に置き換える作業のほうがスムーズなんじゃないでしょうか。
だから「解釈」の意味を持つ「interpret」が使われる、と。
調べてみると、通訳学校でも要約のトレーニングをするらしいです。
一字一句を正確に覚えることより、意味を捉えることが現実的には重要…
ということを示唆しているような気がします。
ですから、ポイントを掴みとる能力が高い傾向、
チャンクアップ能力が求められる分野なのではないか、という話です。
通訳のトレーニングをするうちに、その能力が高まる人もいるでしょうし、
もともとその傾向が高い人が通訳になりやすいとも言えそうですが。
じゃあ、僕はどういう傾向かというと、
ちょうど真逆なフシがあります。
細かい違いに目が向きやすく、要領が良い方ではありません。
1つの言葉についても、極力、元の意味に近いものを探したくなってしまう。
翻訳作業なんかをすることもありますが、この理由で時間はかかるとはいえ
自然な日本語に近い言い回しで、かつ元の意味合いを維持する
という方向性のほうが得意なように思います。
よく使われる日本語の意味として曖昧なものがあったりすると、
そういう単語は選ばないように気をつけたくなってしまうんです。
例えば、NLPとか瞑想とかで出てくる「awareness」という単語。
辞書では「気づき」という訳語が与えられることが多いですが、
これは「気づいている aware」という形容詞の名詞化されたものです。
だから「気づいていること」のほうが正確なんです。
「気づき」と言ってしまうと、一般的な日本語では
「気づく」という一瞬の変化を説明する動詞が想定されやすいはずです。
「今日は、こんな気づきがありました」
「やってみて、どんな気づきがありましたか?」
のようなニュアンス。
「発見」に近いんです。
finding とか realization とかのほうが日本語の「気づき」に近い。
すごく訳しにくい言葉だと思います。
翻訳であれば、訳注をつけたり、元の単語を併記したりして
誤解を防ぎやすくすることも可能でしょう。
ですが、通訳の場合、そこまでの時間的余裕はないんだろうと思われます。
結果、多くの場合、一般的に使われる単語に置き換えて話が進む。
細部の正確さよりも、聞いている人が全体として理解できる方が
重視されるところもあるんでしょうし、なにより
聞いている側がそんなに細かいところを気にしているわけではない、
というのも大きいと思います。
話を聞いていて、一字一句を覚えている人なんていませんから。
全体の内容が掴めるようにするほうが重要なんだろうと想像します。
(もちろん、一流の通訳者になると
全体のスムーズさと、細かな単語のニュアンスと
両方を扱えるんだろうとは思いますが)
それに対して、僕の傾向としては、そういう細かい単語の意味の違いとか
理解しやすい日本語の文章構造とか、自然な言い回しとか、
全体からしたら大して重要ではない詳細に意識が向きやすいところがあります。
これだと翻訳はできても、通訳は難しいのではないか?
という気がしてなりません。
また僕は、1つのことに集中しにくい傾向も強いんです。
集中するというよりは、常に意識が分散していて
色々なことが複数、頭の中で展開している印象があります。
目の前の作業に集中できれば、少し前のことは終わったこととして
1つ1つ目の前で話されるものを着実に翻訳しやすいだろうと想像できます。
一方、複数のことを同時に意識する傾向があると
目の前の作業をやりながらも、以前のことも常に気にしている感じになる。
訳し方として複数のアイデアが浮かんできたら、
その全てを同時に意識してしまうので、選ぶ作業も負担になります。
多分、スムーズに口から言葉が出てきにくいと思います。
実際、英語のスピーキングのテストの対策講座なんかでも、何度となく
講師から「話す前にも、話しながらも、考え過ぎている」と指摘されます。
英語力を測るテストなのであって、内容は重視されていない。
だから適当に話し続けることのほうが大事。
…そうは言われても、質問されると沢山の考えが頭に浮かんできますし、
話しながらでも自分が言ったことが頭から離れません。
常に複数のことを同時進行で意識しているため
発話のスムーズさが妨げられる傾向があるようです。
まぁ、これは日本語でも起こっていることなんですが。
質問されると答えを見つけるまでに時間がかかります。
この意識を分散させやすい傾向は、物事の関連性を見つけるのに役立ちます。
なので「ポイントを掴む」という意味での要領はよくありませんが、
他のことと関連づけながら「理解する」というのには有利なようです。
ところが通訳は、自分が理解することが目的ではありません。
むしろ自分の知っている他のことが浮かんできたら、
それは気が散るだけのことになってしまいそうです。
通訳しながら「あれ?じゃあ、あれとの関連はどうなっているんだろう?」
なんて質問をするわけにはいかないわけです。
通訳としては1つ1つの話を着実に変換することが重要で、
その話の内容に疑問をもつ必要はないはずです。
…というより、むしろ疑問をもつことは
スムーズに発話するのを妨げるものにしかならないでしょう。
そして心配材料。
日本語への影響はどうなのか?ということ。
これについても、意識が分散しているのが懸念のポイントとなります。
複数が同時に意識に浮かびやすいので、
日本語を話していても頭の片隅に英語が出てくるとか、
英語を話していても日本語も同時に意識しているとか、
そういうことが起きてくるのではないか?と推測されます。
実際、英語を話していてもフランス語は浮かんでくるんです。
逆もしかり。
現時点では英語と日本語の違いの大きさからか、
英語と日本語が混ざることは少ないです。
しかし通訳トレーニングをやったら、両者の距離が近づくというか
相互変換がスムーズになるほど、混在しやすくなりそうにも思えます。
頭の裏側で常に別言語が進行するような感じになったら…。
まぁ、慣れるのかもしれませんが
意識に上がることが増えるのは負担にもなりそうですし。
ということで、通訳に向いていない個性が僕にありそうだということと、
頭の中がややこしくなりそうだということで、
今のところ通訳のトレーニングについては二の足を踏んでいる状況です。
もうすっかり当たり前になった感じもしますが、
広告の閲覧履歴なんかも、次の広告表示に影響するようです。
スマホでうっかり触ってしまって偶然に広告を開いてしまったりすると
その後、似たような内容のものとして表示されたりしますし。
僕の場合、外国語関連の検索をしたりすることが多く、
自然と広告にも外国語のものが多い印象を受けます。
そうはいっても英語のニーズの高さは
他の外国語と比べものになりませんから、
表示されてくる広告も当然、英語関連ばかり。
勉強法やら英語コーチングやら、英会話カフェやら、スクールやら。
先日は通訳学校の広告も出てきました。
英語力を土台から高める、という観点では
通訳のトレーニングは効果的かもしれないと感じるところもあります。
実際、チョット興味があるんです。
一方で、英語と日本語が常に行ったり来たりする状態になっていると
切り替えがどうなるのか、という心配もあります。
「通訳モード」みたいなのが出来上がるのかもしれませんが
普段、英語だけ、日本語だけを話しているときには
どういう感じになるんでしょうか?
僕が見ている感じでは、通訳をやっている人には
NLP的にいうと、1つの体験にアソシエイトしやすく
同時に抽象度の高い作業に意識が向きやすい傾向がありそうな印象です。
目の前のことに集中することができて、
しかも法則やパターンとして持っているものを
堅実に使い続けることができる。
また、要領がよくて、瞬間的にポイントを掴む能力にも長けた傾向です。
細かいことを考えすぎて進めなくなるタイプではない感じ。
実際、通訳をしている最中に、
「もっとこっちのニュアンスのほうが近いかも…」
なんて気にしている時間的余裕はないのかもしれません。
一字一句を覚えて、翻訳をするわけでもないようですし。
話の内容を押さえて、それに対応する日本語の文章に変換する。
その意味で、通訳は「translator」ではなく
「interpreter」と呼ばれるのかもしれません。
フランス語からスペイン語のように、近い言語であれば
単語と単語で一対一の変換を行って、
同じ構文を使って正確な翻訳作業もできる可能性はありそうですが、
日本語と英語のように文法的にも単語としても大きく異なる言語では
会話の最中に「翻訳」をすることは困難だと想像されます。
むしろ意味合いを理解して、元の意味合いに近い内容を
日本語に置き換える作業のほうがスムーズなんじゃないでしょうか。
だから「解釈」の意味を持つ「interpret」が使われる、と。
調べてみると、通訳学校でも要約のトレーニングをするらしいです。
一字一句を正確に覚えることより、意味を捉えることが現実的には重要…
ということを示唆しているような気がします。
ですから、ポイントを掴みとる能力が高い傾向、
チャンクアップ能力が求められる分野なのではないか、という話です。
通訳のトレーニングをするうちに、その能力が高まる人もいるでしょうし、
もともとその傾向が高い人が通訳になりやすいとも言えそうですが。
じゃあ、僕はどういう傾向かというと、
ちょうど真逆なフシがあります。
細かい違いに目が向きやすく、要領が良い方ではありません。
1つの言葉についても、極力、元の意味に近いものを探したくなってしまう。
翻訳作業なんかをすることもありますが、この理由で時間はかかるとはいえ
自然な日本語に近い言い回しで、かつ元の意味合いを維持する
という方向性のほうが得意なように思います。
よく使われる日本語の意味として曖昧なものがあったりすると、
そういう単語は選ばないように気をつけたくなってしまうんです。
例えば、NLPとか瞑想とかで出てくる「awareness」という単語。
辞書では「気づき」という訳語が与えられることが多いですが、
これは「気づいている aware」という形容詞の名詞化されたものです。
だから「気づいていること」のほうが正確なんです。
「気づき」と言ってしまうと、一般的な日本語では
「気づく」という一瞬の変化を説明する動詞が想定されやすいはずです。
「今日は、こんな気づきがありました」
「やってみて、どんな気づきがありましたか?」
のようなニュアンス。
「発見」に近いんです。
finding とか realization とかのほうが日本語の「気づき」に近い。
すごく訳しにくい言葉だと思います。
翻訳であれば、訳注をつけたり、元の単語を併記したりして
誤解を防ぎやすくすることも可能でしょう。
ですが、通訳の場合、そこまでの時間的余裕はないんだろうと思われます。
結果、多くの場合、一般的に使われる単語に置き換えて話が進む。
細部の正確さよりも、聞いている人が全体として理解できる方が
重視されるところもあるんでしょうし、なにより
聞いている側がそんなに細かいところを気にしているわけではない、
というのも大きいと思います。
話を聞いていて、一字一句を覚えている人なんていませんから。
全体の内容が掴めるようにするほうが重要なんだろうと想像します。
(もちろん、一流の通訳者になると
全体のスムーズさと、細かな単語のニュアンスと
両方を扱えるんだろうとは思いますが)
それに対して、僕の傾向としては、そういう細かい単語の意味の違いとか
理解しやすい日本語の文章構造とか、自然な言い回しとか、
全体からしたら大して重要ではない詳細に意識が向きやすいところがあります。
これだと翻訳はできても、通訳は難しいのではないか?
という気がしてなりません。
また僕は、1つのことに集中しにくい傾向も強いんです。
集中するというよりは、常に意識が分散していて
色々なことが複数、頭の中で展開している印象があります。
目の前の作業に集中できれば、少し前のことは終わったこととして
1つ1つ目の前で話されるものを着実に翻訳しやすいだろうと想像できます。
一方、複数のことを同時に意識する傾向があると
目の前の作業をやりながらも、以前のことも常に気にしている感じになる。
訳し方として複数のアイデアが浮かんできたら、
その全てを同時に意識してしまうので、選ぶ作業も負担になります。
多分、スムーズに口から言葉が出てきにくいと思います。
実際、英語のスピーキングのテストの対策講座なんかでも、何度となく
講師から「話す前にも、話しながらも、考え過ぎている」と指摘されます。
英語力を測るテストなのであって、内容は重視されていない。
だから適当に話し続けることのほうが大事。
…そうは言われても、質問されると沢山の考えが頭に浮かんできますし、
話しながらでも自分が言ったことが頭から離れません。
常に複数のことを同時進行で意識しているため
発話のスムーズさが妨げられる傾向があるようです。
まぁ、これは日本語でも起こっていることなんですが。
質問されると答えを見つけるまでに時間がかかります。
この意識を分散させやすい傾向は、物事の関連性を見つけるのに役立ちます。
なので「ポイントを掴む」という意味での要領はよくありませんが、
他のことと関連づけながら「理解する」というのには有利なようです。
ところが通訳は、自分が理解することが目的ではありません。
むしろ自分の知っている他のことが浮かんできたら、
それは気が散るだけのことになってしまいそうです。
通訳しながら「あれ?じゃあ、あれとの関連はどうなっているんだろう?」
なんて質問をするわけにはいかないわけです。
通訳としては1つ1つの話を着実に変換することが重要で、
その話の内容に疑問をもつ必要はないはずです。
…というより、むしろ疑問をもつことは
スムーズに発話するのを妨げるものにしかならないでしょう。
そして心配材料。
日本語への影響はどうなのか?ということ。
これについても、意識が分散しているのが懸念のポイントとなります。
複数が同時に意識に浮かびやすいので、
日本語を話していても頭の片隅に英語が出てくるとか、
英語を話していても日本語も同時に意識しているとか、
そういうことが起きてくるのではないか?と推測されます。
実際、英語を話していてもフランス語は浮かんでくるんです。
逆もしかり。
現時点では英語と日本語の違いの大きさからか、
英語と日本語が混ざることは少ないです。
しかし通訳トレーニングをやったら、両者の距離が近づくというか
相互変換がスムーズになるほど、混在しやすくなりそうにも思えます。
頭の裏側で常に別言語が進行するような感じになったら…。
まぁ、慣れるのかもしれませんが
意識に上がることが増えるのは負担にもなりそうですし。
ということで、通訳に向いていない個性が僕にありそうだということと、
頭の中がややこしくなりそうだということで、
今のところ通訳のトレーニングについては二の足を踏んでいる状況です。
2019年08月27日
病院の世界
ここ最近、病院で何度か検査をしてきました。
二か月ほど前に気を失ったことについての話です。
僕自身は心配していなかったんですが、家族が「どうしても」というので
知人の縁を通して大学病院に紹介状を書いてもらって診察を受けることに。
色々な検査データを見ても異常が見当たらないとのことで
結局は「何が理由か分からないから静観」と。
ちょうど時を同じくして母が手術で同じ病院に入院していたため
診察や検査に行ったときに、そのままお見舞いに行くこともできました。
まぁ、その意味では良いタイミングだったのかもしれません。
それにしても外科というのは検査データが重要なんですね。
最初に行った病院は同じ「脳神経〇〇科」でも「内科」だったので
検査データだけでなく、時間をかけて問診をされました。
どういうことが内側で起こっているか、因果関係を調べようとする感じ。
刑事とか探偵とかに近いイメージでしょうか。
それが脳神経外科となるとアプローチも異なってくるようです。
こちらのほうが器質的な問題というか、問題のある身体的部位を特定して
そこを”治療”しようという発想がベースなのかもしれません。
たとえば僕の現状が疑われていた「てんかん」についていえば
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮によって起こる反復性発作」
と考えられていますから、
「脳細胞の過剰な電気的興奮」というのが問題だとされるわけです。
そして
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮によって起こる反復性発作」
のように言うと、あたかも
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」が「反復性発作」を引き起こす
かのように見えます。
確かに時間経過を見ると、脳の電気的興奮が伝わって
意識消失や筋肉の硬直や痙攣を引き起こすまでには
微妙な時間差があるでしょうし、
脳→身体のように部位が移るところにも順序の関係は見てとれます。
その意味では
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」が「反復性発作」を引き起こす
のように言うことも不可能ではありません。
しかし見方を変えると、
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」に引き続いて
身体に表れる観察可能な発作が起こる
というのは、
現象を違うレベルで説明しているだけ
とも言えそうです。
温度と分子の運動の関係のようなものです。
分子が速く振動しているときが高温。
「高温」という温度計で測定可能なデータは、
細かいレベルで起こっている現象としていうと
「分子が速く振動している」ことと一致するんです。
「分子が速く振動する」から「高温」になる
のではなく、
「分子が速く振動している状態」が「高温」に相当する
というほうが正確。
「分子が速く振動する」のは「高温」の原因ではなく、
「温度」という1つの現象を
・分子レベルで説明するか
・温度計で測定可能なデータのレベルで説明するか
の違いでしかありません。
同様に、「てんかん発作」というのも
・神経系統のレベルで説明するか
・観察可能な身体状態のレベルで説明するか
の違いだとも言えるはずなんです。
神経のレベルでいえば、
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮が全身の神経系統にまで伝播する状態」
と表現できる。
身体状態のレベルでいえば、
「痙攣や筋肉の硬直や脱力、意識消失が発作的に起こる症状」
と表現できる。
説明している対象は同じ現象のはずなんです。
ですから「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」というのは
てんかんの『原因』ではなく、解剖学的な『メカニズム』です。
ただし、意識消失や痙攣そのものは
「脳神経系の過剰興奮」というメカニズムで起きるとは限りません。
なので、意識消失や痙攣のような身体的発作の種類を、
どういうメカニズムで起きるのかによって分類するのは有用でしょう。
ですから、
意識消失や痙攣のような身体的発作のうち
「脳神経系の過剰興奮」というメカニズムで起きるものを
『てんかん』と呼ぶ
のような説明の仕方になります。
まとめると、
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」が「反復性発作」を引き起こす原因
なのではなく、
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」が起きているときに
「身体レベルで観察される反復性発作」
のような同時性を表現する方が
言語的な定義としては正確じゃないか、ということです。
このように捉えると、てんかんが起きる『原因』は、
神経系統のレベルで捉えるなら
「そもそも何が『大脳神経細胞の過剰な電気的興奮』を生み出しているのか?」
という部分に行きつきます。
外科は、その部分をあまり考えないのでしょうか。
メカニズムに対して外的な介入をして制御・修正する。
すると身体的に観察可能なレベルでは症状がなくなる。
そんなスタンスなのかもしれません。
『原因』と『メカニズム』は別物です。
原因は「同じ抽象度における因果関係の繋がりとして説明されるもの」です。
メカニズムは「1つの現象を別の抽象度で説明したもの」です。
この違いはあまり厳密に使い分けられていないのかもしれません。
どちらも「なぜ?」「なんで?」の質問の答えとして許容されてしまっています。
典型的なのは「なんで空は青いの?」という質問。
「なんで今日はスーパーに買い物に来たの?」も、同じ「なんで?」の質問です。
「空が青い」のに原因はありません。
強いていうと、
「今、空が青いのは、雲が通り過ぎて行ったから」
「さっきまで黒かったのに今、空が青いのは、太陽が昇ってきたから」
ぐらいでしょう。
「空気中の水によって太陽光が散乱するときに
波長の短い青系統の光ほど良く散乱するから
青の光が目に届きやすくなる」
のような説明は『メカニズム』の説明なんです。
「なんで今日はスーパーに買い物に来たの?」は
「冷蔵庫の中身が空っぽになってしまったから」という『原因』でも説明可能ですし、
「他の店でも買えるのに、あえてスーパーに来たのは
一度に必要なものを全て買いそろえて時間を短縮したいから」
という『目的』でも説明可能です。
こうした説明の仕方の区別を明確にしておくと
目の前の『問題』についても様々な観点から捉えられるようになるはずです。
身体症状という問題を、原因で見るのか、メカニズムで見るのか。
医学の世界では、どれぐらい明確に区別しているのでしょう?
二か月ほど前に気を失ったことについての話です。
僕自身は心配していなかったんですが、家族が「どうしても」というので
知人の縁を通して大学病院に紹介状を書いてもらって診察を受けることに。
色々な検査データを見ても異常が見当たらないとのことで
結局は「何が理由か分からないから静観」と。
ちょうど時を同じくして母が手術で同じ病院に入院していたため
診察や検査に行ったときに、そのままお見舞いに行くこともできました。
まぁ、その意味では良いタイミングだったのかもしれません。
それにしても外科というのは検査データが重要なんですね。
最初に行った病院は同じ「脳神経〇〇科」でも「内科」だったので
検査データだけでなく、時間をかけて問診をされました。
どういうことが内側で起こっているか、因果関係を調べようとする感じ。
刑事とか探偵とかに近いイメージでしょうか。
それが脳神経外科となるとアプローチも異なってくるようです。
こちらのほうが器質的な問題というか、問題のある身体的部位を特定して
そこを”治療”しようという発想がベースなのかもしれません。
たとえば僕の現状が疑われていた「てんかん」についていえば
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮によって起こる反復性発作」
と考えられていますから、
「脳細胞の過剰な電気的興奮」というのが問題だとされるわけです。
そして
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮によって起こる反復性発作」
のように言うと、あたかも
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」が「反復性発作」を引き起こす
かのように見えます。
確かに時間経過を見ると、脳の電気的興奮が伝わって
意識消失や筋肉の硬直や痙攣を引き起こすまでには
微妙な時間差があるでしょうし、
脳→身体のように部位が移るところにも順序の関係は見てとれます。
その意味では
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」が「反復性発作」を引き起こす
のように言うことも不可能ではありません。
しかし見方を変えると、
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」に引き続いて
身体に表れる観察可能な発作が起こる
というのは、
現象を違うレベルで説明しているだけ
とも言えそうです。
温度と分子の運動の関係のようなものです。
分子が速く振動しているときが高温。
「高温」という温度計で測定可能なデータは、
細かいレベルで起こっている現象としていうと
「分子が速く振動している」ことと一致するんです。
「分子が速く振動する」から「高温」になる
のではなく、
「分子が速く振動している状態」が「高温」に相当する
というほうが正確。
「分子が速く振動する」のは「高温」の原因ではなく、
「温度」という1つの現象を
・分子レベルで説明するか
・温度計で測定可能なデータのレベルで説明するか
の違いでしかありません。
同様に、「てんかん発作」というのも
・神経系統のレベルで説明するか
・観察可能な身体状態のレベルで説明するか
の違いだとも言えるはずなんです。
神経のレベルでいえば、
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮が全身の神経系統にまで伝播する状態」
と表現できる。
身体状態のレベルでいえば、
「痙攣や筋肉の硬直や脱力、意識消失が発作的に起こる症状」
と表現できる。
説明している対象は同じ現象のはずなんです。
ですから「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」というのは
てんかんの『原因』ではなく、解剖学的な『メカニズム』です。
ただし、意識消失や痙攣そのものは
「脳神経系の過剰興奮」というメカニズムで起きるとは限りません。
なので、意識消失や痙攣のような身体的発作の種類を、
どういうメカニズムで起きるのかによって分類するのは有用でしょう。
ですから、
意識消失や痙攣のような身体的発作のうち
「脳神経系の過剰興奮」というメカニズムで起きるものを
『てんかん』と呼ぶ
のような説明の仕方になります。
まとめると、
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」が「反復性発作」を引き起こす原因
なのではなく、
「大脳神経細胞の過剰な電気的興奮」が起きているときに
「身体レベルで観察される反復性発作」
のような同時性を表現する方が
言語的な定義としては正確じゃないか、ということです。
このように捉えると、てんかんが起きる『原因』は、
神経系統のレベルで捉えるなら
「そもそも何が『大脳神経細胞の過剰な電気的興奮』を生み出しているのか?」
という部分に行きつきます。
外科は、その部分をあまり考えないのでしょうか。
メカニズムに対して外的な介入をして制御・修正する。
すると身体的に観察可能なレベルでは症状がなくなる。
そんなスタンスなのかもしれません。
『原因』と『メカニズム』は別物です。
原因は「同じ抽象度における因果関係の繋がりとして説明されるもの」です。
メカニズムは「1つの現象を別の抽象度で説明したもの」です。
この違いはあまり厳密に使い分けられていないのかもしれません。
どちらも「なぜ?」「なんで?」の質問の答えとして許容されてしまっています。
典型的なのは「なんで空は青いの?」という質問。
「なんで今日はスーパーに買い物に来たの?」も、同じ「なんで?」の質問です。
「空が青い」のに原因はありません。
強いていうと、
「今、空が青いのは、雲が通り過ぎて行ったから」
「さっきまで黒かったのに今、空が青いのは、太陽が昇ってきたから」
ぐらいでしょう。
「空気中の水によって太陽光が散乱するときに
波長の短い青系統の光ほど良く散乱するから
青の光が目に届きやすくなる」
のような説明は『メカニズム』の説明なんです。
「なんで今日はスーパーに買い物に来たの?」は
「冷蔵庫の中身が空っぽになってしまったから」という『原因』でも説明可能ですし、
「他の店でも買えるのに、あえてスーパーに来たのは
一度に必要なものを全て買いそろえて時間を短縮したいから」
という『目的』でも説明可能です。
こうした説明の仕方の区別を明確にしておくと
目の前の『問題』についても様々な観点から捉えられるようになるはずです。
身体症状という問題を、原因で見るのか、メカニズムで見るのか。
医学の世界では、どれぐらい明確に区別しているのでしょう?
2019年08月01日
放っておけない人
誰かに対して、何かをしてあげずにはいられない
とか
誰かのことを放っておけない
とか、
そういうときには、非常に高確率で
『その人本人が過去に負った心の傷』が関係しているようです。
特に多いのは「別れに伴う後悔や罪悪感」など。
「もっとこうしていれば…」
「何もしてあげられなかった」
「こんなことなら、あのときに〇〇していたのに…」
といった気持ちをもったまま別れを迎えると、
突然の別れに伴う『ショック』と
大切な存在が戻ってこない『寂しさ』とが重なって
強い感情を抱えることになります。
この強い感情が記憶の定着を促す。
結果的に、そのときに浮かんだ後悔や罪悪感にまつわる思考が
パターン化された経験則として保存されることになります。
これを『ビリーフ』と呼んでも構いません。
とにかく「何もしないと、いずれ後悔する」という経験則が
ワンパターンの凝り固まった考え方として残ってしまうわけです。
そしてその後、同様な形で別れに繋がりそうな場面に出くわすと
過去の記憶が自動的に蘇ります。
多くの場合は、本人にとって記憶の内容までは無自覚ですが、
心の中には複雑に混ざり合った気持ちが起きてくるわけです。
混ざるものとしては…
・そのときに体験したショックと寂しさの感情
・自分の過去の行動に対する後悔や罪悪感の感情
・後悔や罪悪感に基づく「二度とこんなことは繰り返さない」という思考
・「また同じような別れになるかも」という思考と、それゆえの恐れの感情
・後悔を繰り返さないため、恐れている結果を防ぐための行動
・その行動を力づくで成し遂げようとするときに生まれる怒りの感情
あたりでしょう。
こうした複雑な状態が一気に引き出される。
自分でも良くわからない、取り乱した感じになるといえます。
ですから、その状態で浮かんでくる考えとか
相手を説得しようとして言う内容などは
思い付きのものに近く、深く吟味されたものではないほうが自然です。
というよりも、注意深く考えることができない状態になるんです。
もちろん、前提には、目の前の相手に対しての特別な想いがあります。
どうでもいい他人ではない、大事な存在として認識するからこそ
「この人まで失いたくない」という気持ちが生まれるのでしょう。
なので、本人の自覚としては「心配」という表現になりがちです。
しかし実態として内面で体験されている内容は、
目の前の相手に対して生まれた気持ちや感情ではなく、
むしろ過去の別れの体験の際に残った心の痛みのほうなんです。
目の前の相手との別れを想像させる出来事があったときに、
似たような過去の別れの体験にまつわる記憶が蘇ってきて
過去に味わった複雑な心の痛みが、今そこで再体験されてしまう、と。
つまり実際には、目の前の相手に対しての気持ちよりも
過去の心の傷にまつわる気持ちのほうが強く出てしまっているわけです。
言い換えると、
目の前に相手がいるのに、その相手に対する気持ちではなく
過去に別れを経験した相手のほうに意識の大部分が引っ張られている
ということです。
皮肉な話です。
本人は目の前の相手を思っているつもりでしょうけれど、
実際に起こっている心の動きは、過去の別れに対しての思いなんですから。
目の前の人は、本人が過去に体験した別れに伴う心の傷を
思い出すためのキッカケになっている、といえます。
そうなると意識の大部分は過去のほうを向いてしまって、
大切なはずの目の前の人から目を背けてしまうことにもなりかねません。
ポイントは「二度と同じことを繰り返さないように」という発想から
「同じような結末を防ごうとする」行動を取りたくなるところ。
ここで「別れ」という出来事そのものを防ごうと躍起になりがちです。
しかし現実的には、どうにもコントロールできないことがあります。
自分の外で起こる出来事は、自分のコントロールの範囲外です。
にもかかわらず、なんとかコントロールしようとする。
一方で、「二度と同じことを繰り返さない」ようにするのは
シンプルに言えば、「後悔しない」ようにするという話です。
後悔は「あのときに、こうしていれば」といった形の発想ですから
「自分が最善を尽くした」と思えるようにするのが原則でしょう。
出来事のレベルで結果を変えようとするのではなく、
自分の行動として「後悔の無いように、できる限りの関りをする」。
これなら自分にコントロールできる範囲です。
結果に関しては、いずれ受け入れざるを得なくなるものなんです。
「自分にコントロールできないことだった、仕方なかった」と思えてくる。
現実の不条理さは、時間が経てば受け入れやすいんです。
しかし、自分にコントロールできたはずのこと、
つまり「もっとこうしておけばよかった」というレベルの
自分の行動に関しては、「仕方なかった」とは思いにくい傾向があります。
自分にコントロールできたはずだからこそ、
そこに後悔が残りやすいんです。
だからこそ、自分には受け入れ難い結果を変えようとして躍起になるよりも、
自分にコントロールできる範囲の自分の行動として
悔いのない精一杯の関わりをしておくことのほうが、
のちのちに大きな意義を持ってくるわけです。
我が家で飼っていた犬は、二回とも骨肉腫にかかりました。
晩年は、それで体調を崩していたものです。
直接の死因は別の呼び名だったと思いますが、
寿命を短くしたのは骨肉腫だったと言ってもいいと思います。
間接のところに腫瘍ができて、大きく膨れてくるんです。
その重さで歩きにくそうにも見えました。
当然、心配になります。
動物病院に連れて行きます。
「腫瘍ができていますね。
悪性か良性かは、生検をしないと分かりません。
念のため調べてみますか?」
という話になって、腫瘍を一部切り取って検査をしました。
悪性でした。
じゃあ、手術をするか?
そのときの犬の年齢を考えると、手術に耐える体力があるかも疑問。
手術代も高額です。
手術が上手くいっても、老い先は決して長くはない時期でした。
手術をしなくても、それなりには生きるだろうという見立ても。
結局、我が家では手術はしないほうを選びました。
しかし、腫瘍を切り取った傷口がなかなか塞がらず
傷口はいつも血でにじんでいる状態が続きました。
そして9歳で命を終えました。
果たして、手術をするべきだったのか?
手術をしてれば、もっと長く生きられたかもしれない。
どうせ手術をしないなら、検査もしないほうが良かったんじゃないか?
それだったら血だらけで痛い思いをせずに晩年を過ごせたのでは?
そんな考えにはキリがありません。
結果をコントロールしようとすれば、別の選択肢を知っているからこそ
「あっちを選んでいれば、もっと良かったかもしれない」
という発想を持ってしまいがちです。
そして後悔する。
仮に手術をしていたとしても、上手くいったかは分からないのに。
手術をしたほうが寿命を縮めてしまった可能性もあります。
もしそうだったら
「手術なんてしないで、そのまま生かせてあげればよかった」
という後悔をしていたはずです。
手術が上手くいったケースでさえ、
「やっぱり手術なんかせずに、自然にしてあげたほうがよかった。
あんなに苦しい思いをさせてまで、1,2年長生きしても意味がない。」
なんて形の後悔をしていた可能性だってあるんです。
結局、何を選んだって、後悔するんです。
「別の選択肢を選んでいたら、もっと良かったかもしれない」
という発想を持ってしまう限り。
出来事としての結果、つまり自分の身体の外に起きることを
コントロールしようとして何かをしたとしても、
それはコントロールの範囲外だからこそ
常に「もっと良かったかもしれない」可能性が浮かんでしまうんです。
考えても仕方ないことなんです。
それよりは、
「犬と一緒にいた限られた時間、
自分が犬のためにしてあげたいことを全部やったか?」
そういう話です。
とか
誰かのことを放っておけない
とか、
そういうときには、非常に高確率で
『その人本人が過去に負った心の傷』が関係しているようです。
特に多いのは「別れに伴う後悔や罪悪感」など。
「もっとこうしていれば…」
「何もしてあげられなかった」
「こんなことなら、あのときに〇〇していたのに…」
といった気持ちをもったまま別れを迎えると、
突然の別れに伴う『ショック』と
大切な存在が戻ってこない『寂しさ』とが重なって
強い感情を抱えることになります。
この強い感情が記憶の定着を促す。
結果的に、そのときに浮かんだ後悔や罪悪感にまつわる思考が
パターン化された経験則として保存されることになります。
これを『ビリーフ』と呼んでも構いません。
とにかく「何もしないと、いずれ後悔する」という経験則が
ワンパターンの凝り固まった考え方として残ってしまうわけです。
そしてその後、同様な形で別れに繋がりそうな場面に出くわすと
過去の記憶が自動的に蘇ります。
多くの場合は、本人にとって記憶の内容までは無自覚ですが、
心の中には複雑に混ざり合った気持ちが起きてくるわけです。
混ざるものとしては…
・そのときに体験したショックと寂しさの感情
・自分の過去の行動に対する後悔や罪悪感の感情
・後悔や罪悪感に基づく「二度とこんなことは繰り返さない」という思考
・「また同じような別れになるかも」という思考と、それゆえの恐れの感情
・後悔を繰り返さないため、恐れている結果を防ぐための行動
・その行動を力づくで成し遂げようとするときに生まれる怒りの感情
あたりでしょう。
こうした複雑な状態が一気に引き出される。
自分でも良くわからない、取り乱した感じになるといえます。
ですから、その状態で浮かんでくる考えとか
相手を説得しようとして言う内容などは
思い付きのものに近く、深く吟味されたものではないほうが自然です。
というよりも、注意深く考えることができない状態になるんです。
もちろん、前提には、目の前の相手に対しての特別な想いがあります。
どうでもいい他人ではない、大事な存在として認識するからこそ
「この人まで失いたくない」という気持ちが生まれるのでしょう。
なので、本人の自覚としては「心配」という表現になりがちです。
しかし実態として内面で体験されている内容は、
目の前の相手に対して生まれた気持ちや感情ではなく、
むしろ過去の別れの体験の際に残った心の痛みのほうなんです。
目の前の相手との別れを想像させる出来事があったときに、
似たような過去の別れの体験にまつわる記憶が蘇ってきて
過去に味わった複雑な心の痛みが、今そこで再体験されてしまう、と。
つまり実際には、目の前の相手に対しての気持ちよりも
過去の心の傷にまつわる気持ちのほうが強く出てしまっているわけです。
言い換えると、
目の前に相手がいるのに、その相手に対する気持ちではなく
過去に別れを経験した相手のほうに意識の大部分が引っ張られている
ということです。
皮肉な話です。
本人は目の前の相手を思っているつもりでしょうけれど、
実際に起こっている心の動きは、過去の別れに対しての思いなんですから。
目の前の人は、本人が過去に体験した別れに伴う心の傷を
思い出すためのキッカケになっている、といえます。
そうなると意識の大部分は過去のほうを向いてしまって、
大切なはずの目の前の人から目を背けてしまうことにもなりかねません。
ポイントは「二度と同じことを繰り返さないように」という発想から
「同じような結末を防ごうとする」行動を取りたくなるところ。
ここで「別れ」という出来事そのものを防ごうと躍起になりがちです。
しかし現実的には、どうにもコントロールできないことがあります。
自分の外で起こる出来事は、自分のコントロールの範囲外です。
にもかかわらず、なんとかコントロールしようとする。
一方で、「二度と同じことを繰り返さない」ようにするのは
シンプルに言えば、「後悔しない」ようにするという話です。
後悔は「あのときに、こうしていれば」といった形の発想ですから
「自分が最善を尽くした」と思えるようにするのが原則でしょう。
出来事のレベルで結果を変えようとするのではなく、
自分の行動として「後悔の無いように、できる限りの関りをする」。
これなら自分にコントロールできる範囲です。
結果に関しては、いずれ受け入れざるを得なくなるものなんです。
「自分にコントロールできないことだった、仕方なかった」と思えてくる。
現実の不条理さは、時間が経てば受け入れやすいんです。
しかし、自分にコントロールできたはずのこと、
つまり「もっとこうしておけばよかった」というレベルの
自分の行動に関しては、「仕方なかった」とは思いにくい傾向があります。
自分にコントロールできたはずだからこそ、
そこに後悔が残りやすいんです。
だからこそ、自分には受け入れ難い結果を変えようとして躍起になるよりも、
自分にコントロールできる範囲の自分の行動として
悔いのない精一杯の関わりをしておくことのほうが、
のちのちに大きな意義を持ってくるわけです。
我が家で飼っていた犬は、二回とも骨肉腫にかかりました。
晩年は、それで体調を崩していたものです。
直接の死因は別の呼び名だったと思いますが、
寿命を短くしたのは骨肉腫だったと言ってもいいと思います。
間接のところに腫瘍ができて、大きく膨れてくるんです。
その重さで歩きにくそうにも見えました。
当然、心配になります。
動物病院に連れて行きます。
「腫瘍ができていますね。
悪性か良性かは、生検をしないと分かりません。
念のため調べてみますか?」
という話になって、腫瘍を一部切り取って検査をしました。
悪性でした。
じゃあ、手術をするか?
そのときの犬の年齢を考えると、手術に耐える体力があるかも疑問。
手術代も高額です。
手術が上手くいっても、老い先は決して長くはない時期でした。
手術をしなくても、それなりには生きるだろうという見立ても。
結局、我が家では手術はしないほうを選びました。
しかし、腫瘍を切り取った傷口がなかなか塞がらず
傷口はいつも血でにじんでいる状態が続きました。
そして9歳で命を終えました。
果たして、手術をするべきだったのか?
手術をしてれば、もっと長く生きられたかもしれない。
どうせ手術をしないなら、検査もしないほうが良かったんじゃないか?
それだったら血だらけで痛い思いをせずに晩年を過ごせたのでは?
そんな考えにはキリがありません。
結果をコントロールしようとすれば、別の選択肢を知っているからこそ
「あっちを選んでいれば、もっと良かったかもしれない」
という発想を持ってしまいがちです。
そして後悔する。
仮に手術をしていたとしても、上手くいったかは分からないのに。
手術をしたほうが寿命を縮めてしまった可能性もあります。
もしそうだったら
「手術なんてしないで、そのまま生かせてあげればよかった」
という後悔をしていたはずです。
手術が上手くいったケースでさえ、
「やっぱり手術なんかせずに、自然にしてあげたほうがよかった。
あんなに苦しい思いをさせてまで、1,2年長生きしても意味がない。」
なんて形の後悔をしていた可能性だってあるんです。
結局、何を選んだって、後悔するんです。
「別の選択肢を選んでいたら、もっと良かったかもしれない」
という発想を持ってしまう限り。
出来事としての結果、つまり自分の身体の外に起きることを
コントロールしようとして何かをしたとしても、
それはコントロールの範囲外だからこそ
常に「もっと良かったかもしれない」可能性が浮かんでしまうんです。
考えても仕方ないことなんです。
それよりは、
「犬と一緒にいた限られた時間、
自分が犬のためにしてあげたいことを全部やったか?」
そういう話です。
2019年07月26日
ビジネスのお手伝い
なんだか色々と重なって落ち着きのない時期を過ごしていました。
最近は歩いていると目眩というか、
意識の一部がどこかに持っていかれるような感じがあって
街中を歩きにくいところがあります。
とくに周りに人が多いとき、後ろを人が歩いているときなどになりやすい。
察知している範囲が広すぎて、過敏になっているのかもしれません。
そういう状態だと満員電車で立っているのはリスクが高そうですから
混雑した電車を避ける度合いも以前より増してきています。
なので近頃は平日のセミナーがある日には
早朝の電車に乗って、現地で時間をつぶす形になってきました。
ネット環境が整っていれば待ち時間にブログを書いたり…
ということもできそうなんですが、
6時過ぎに都内でやっている店は滅多にありません。
仕方なく限られた場所で仕事をしている形です。
不思議なもので、僕のように個人で活動をしていると
仕事の種類は時期によって異なってくるようです。
ここ1,2年は、多少ビジネス寄りのお手伝いも増えてきました。
広告を考えたり、ホームページの文面を考えたり、
プロモーションの素材をアレンジするお手伝いをしたり。
もともと僕は、何かを売り込んだり、アピールしたりするのは
あまり好きではありませんし、得意でもありませんでした。
が、基本的には「物やサービスを売る」というのも
人の心に「購入」という動機づけをする
だけの話だと考えれば、仕組みとしては扱えます。
効果が出るかどうか、の部分では
経験知がある方には遠く及びません。
なので「こうしたら売れそうだ」という勘を蓄えている人に対して
「こういうのはどうですか?」と考えを提示して
それで「あぁ!それは良いですね!」となれば役に立ててもらえる…
そんな形になっています。
そして、そういうことを続けていると自分でも作業に慣れてきますし
なんとなくのポイントも掴めてくるんでしょう。
自然と頭の中が整理されてきて、
抜けていたポイントなどが見えるようになってきました。
おそらく結果の出ている広告やホームページなどを見る量を増やせば
コツにあたるところも分析できるだろうとは想像しています。
あとはヤル気の問題。
それでも、そういったビジネス方面のお手伝いなんかもしていると
自然と同じようなお話がやってくるみたいです。
これに関しては、僕が手を動かす量も増えるので
パソコンの前で時間と労力を費やす比率が上がっている現状です。
他へ手が回りにくくなりますね。
ビジネス系のお手伝いも結構できそうだ、という話になってくると
「だったら自分の仕事も上手くアピールしたらいいのに…」
という発想も浮かんでこないわけではありません。
ですが、こちらに関しては本当に腰が重い。
そもそも僕は、自ら率先して動くタイプではないんでしょう。
NLPにはメタプログラムという特性分類がありますが
それでいうと「反映分析型」と呼ばれる傾向が強いんだと思われます。
状況を見て、それに合わせた対応をするスタンス。
ですから気軽な一歩を踏み出すということが少なめです。
「0から1を作り出す」みたいな最初の一歩は好きではないんでしょう。
本当に「ただ動く」だけだったら動けますが
「最初の形を完成させる」ということには辿り着きにくいようです。
逆に「1を10にする」作業は得意分野といえます。
既にあるものを分析して、アレンジして改善する。
そういえば研究職時代もそうでした。
誰かが作った製造プロセスを改善したり、
製造現場のトラブルを解決したりするほうが成果が出やすかったものです。
ビジネス関係でも、ホームページや広告のシステムを
1つの形として作り上げる作業を担当するのは向いていない気がします。
とりあえずラフで良いから作ってもらって、
それをアレンジすることしかできません。
とりわけ動機づけになるのは「頼まれたとき」です。
頼まれれば、依頼者のニーズに沿って工夫します。
ラフで書かれたものから意図を汲みとって
それが伝わりやすい形に整理して、効果的な文面に編集する。
この作業を求めて下さる方がいるのは、ほぼ確実に
『誰も自分の言いたいことを上手く言葉にできない』
という理由からだと考えられます。
主旨は読み取れる。
あとは、その趣旨が一般に伝わるかどうか?
本人は伝えたいことを分かっていますから
論理展開として理由の説明が省略されて、飛躍してしまいがちなんです。
逆に、言いたいことが増えすぎて、筋道が見えなくなる場合もあります。
「また」とか「あとは」とか「あるいは」が多い。
重要なメッセージを具体的に説明するための例として語られる部分ですが
あまりにも並列で情報を追加されると、
話の流れを保持できない人は多いものです。
「言いたいことが多い」ケースに関しては
キャッチフレーズの長さなどにも反映されがちなようです。
最初の一文で目を引く必要がある、だから
大事な内容を一文に全て含めたくなる。
伝わらなければ意味がありませんから
分かって欲しい内容が含まれない文章では上手くいかない。
かといって、伝えたい情報を一文に込めると
文章の構造が複雑になりがちなんです。
例は省きますが、英語でいうと関係代名詞がたくさん使われる感じ。
一目見ただけでは文章の内容理解が追いつかない可能性があります。
長文を読みなれている人、英語の翻訳本を読み慣れている人は
頭の中に情報をキープしながら内容を組み立て直すのが得意になっています。
だから自分には理解できる文章として、複雑な構文を作りやすい。
ところが広告などのキャッチフレーズは、一番最初に目がとまるところです。
読み手がどのように目線を動かすか?
読み手が何文字を一気に捉えられるか?
読み手がどれぐらいのスピードで文章を読めるのか?
そうした読解力の違いによって
キャッチフレーズの内容理解の仕方が異なるわけです。
気になる単語だけに反応して
頑張ってキャッチフレーズを読んでくれれば大丈夫ですが、
キャッチフレーズの文章の解読に負担がかかって
読むことさえ止められてしまっては、元も子もありません。
広告やホームページを目にする人が、どんな人なのか?
その文章を書いている自分と同じ頭の使い方をしているとは限りません。
自分にとって問題のない、当たり前の文章を書いたとき
それが一般とマッチしないことがある、という話です。
論理が飛躍するのも、
「これぐらい言えば納得するだろう」という理由の説明が
自分の理解の仕方を基準にして作られているから、といえます。
キャッチフレーズが長くなるのも
「自分なら、この文章で意味が分かる」という発想のもとに
平均的な人のことを想定していない、といえるでしょう。
どうしても自分にとっての基準で文章を作ってしまいやすいんです。
ビジネスにおいて、特にこれは仕方のないことかもしれません。
最初に公告やホームページなど、形を作ることができる…
つまり「0から1を作れる」特性があるわけです。
前述のメタプログラムでいうと『主体行動型』です。
主体的に行動をする、というのは
端的にいうと「自分の気持ちに素直に動く」と言い換えられます。
周りに合わせて行動を選ぶというよりも
自分を基準にして率先した行動が多い、ということです。
反対に反映分析型は、ああだこうだと人の気持ちを考え過ぎたり
多くの可能性を検討し過ぎたりして、行動に踏み出せません。
ビジネスを立ち上げた”主役”に多い主体行動型は
そもそも他人の立場で考える頻度が少ないんです。
だから行動が早いともいえます。
その分、メッセージを表現するときには
自分の基準で語ってしまいやすい。
読み手、聞き手の立場に立つとか
平均的な傾向を想定して、それに合わせるとか
そういったことは積極的にしないわけです。
僕はそのタイプではありません。
色々と検討してから行動します。
だから自分のビジネスを形にするのが面倒臭くなりがち。
世間との数少ない接点であるはずのブログだって
この通り、いつも後回しです。
反面、一度作られたものを編集するのはやりやすい。
このあたりの個性の違いがあって
ビジネスを立ち上げる人たちの個性を補える形になっているからこそ
自然と頼まれることが増えてきているのかもしれません。
自分からやるつもりは相変わらず、あまりないんですけど。
最近は歩いていると目眩というか、
意識の一部がどこかに持っていかれるような感じがあって
街中を歩きにくいところがあります。
とくに周りに人が多いとき、後ろを人が歩いているときなどになりやすい。
察知している範囲が広すぎて、過敏になっているのかもしれません。
そういう状態だと満員電車で立っているのはリスクが高そうですから
混雑した電車を避ける度合いも以前より増してきています。
なので近頃は平日のセミナーがある日には
早朝の電車に乗って、現地で時間をつぶす形になってきました。
ネット環境が整っていれば待ち時間にブログを書いたり…
ということもできそうなんですが、
6時過ぎに都内でやっている店は滅多にありません。
仕方なく限られた場所で仕事をしている形です。
不思議なもので、僕のように個人で活動をしていると
仕事の種類は時期によって異なってくるようです。
ここ1,2年は、多少ビジネス寄りのお手伝いも増えてきました。
広告を考えたり、ホームページの文面を考えたり、
プロモーションの素材をアレンジするお手伝いをしたり。
もともと僕は、何かを売り込んだり、アピールしたりするのは
あまり好きではありませんし、得意でもありませんでした。
が、基本的には「物やサービスを売る」というのも
人の心に「購入」という動機づけをする
だけの話だと考えれば、仕組みとしては扱えます。
効果が出るかどうか、の部分では
経験知がある方には遠く及びません。
なので「こうしたら売れそうだ」という勘を蓄えている人に対して
「こういうのはどうですか?」と考えを提示して
それで「あぁ!それは良いですね!」となれば役に立ててもらえる…
そんな形になっています。
そして、そういうことを続けていると自分でも作業に慣れてきますし
なんとなくのポイントも掴めてくるんでしょう。
自然と頭の中が整理されてきて、
抜けていたポイントなどが見えるようになってきました。
おそらく結果の出ている広告やホームページなどを見る量を増やせば
コツにあたるところも分析できるだろうとは想像しています。
あとはヤル気の問題。
それでも、そういったビジネス方面のお手伝いなんかもしていると
自然と同じようなお話がやってくるみたいです。
これに関しては、僕が手を動かす量も増えるので
パソコンの前で時間と労力を費やす比率が上がっている現状です。
他へ手が回りにくくなりますね。
ビジネス系のお手伝いも結構できそうだ、という話になってくると
「だったら自分の仕事も上手くアピールしたらいいのに…」
という発想も浮かんでこないわけではありません。
ですが、こちらに関しては本当に腰が重い。
そもそも僕は、自ら率先して動くタイプではないんでしょう。
NLPにはメタプログラムという特性分類がありますが
それでいうと「反映分析型」と呼ばれる傾向が強いんだと思われます。
状況を見て、それに合わせた対応をするスタンス。
ですから気軽な一歩を踏み出すということが少なめです。
「0から1を作り出す」みたいな最初の一歩は好きではないんでしょう。
本当に「ただ動く」だけだったら動けますが
「最初の形を完成させる」ということには辿り着きにくいようです。
逆に「1を10にする」作業は得意分野といえます。
既にあるものを分析して、アレンジして改善する。
そういえば研究職時代もそうでした。
誰かが作った製造プロセスを改善したり、
製造現場のトラブルを解決したりするほうが成果が出やすかったものです。
ビジネス関係でも、ホームページや広告のシステムを
1つの形として作り上げる作業を担当するのは向いていない気がします。
とりあえずラフで良いから作ってもらって、
それをアレンジすることしかできません。
とりわけ動機づけになるのは「頼まれたとき」です。
頼まれれば、依頼者のニーズに沿って工夫します。
ラフで書かれたものから意図を汲みとって
それが伝わりやすい形に整理して、効果的な文面に編集する。
この作業を求めて下さる方がいるのは、ほぼ確実に
『誰も自分の言いたいことを上手く言葉にできない』
という理由からだと考えられます。
主旨は読み取れる。
あとは、その趣旨が一般に伝わるかどうか?
本人は伝えたいことを分かっていますから
論理展開として理由の説明が省略されて、飛躍してしまいがちなんです。
逆に、言いたいことが増えすぎて、筋道が見えなくなる場合もあります。
「また」とか「あとは」とか「あるいは」が多い。
重要なメッセージを具体的に説明するための例として語られる部分ですが
あまりにも並列で情報を追加されると、
話の流れを保持できない人は多いものです。
「言いたいことが多い」ケースに関しては
キャッチフレーズの長さなどにも反映されがちなようです。
最初の一文で目を引く必要がある、だから
大事な内容を一文に全て含めたくなる。
伝わらなければ意味がありませんから
分かって欲しい内容が含まれない文章では上手くいかない。
かといって、伝えたい情報を一文に込めると
文章の構造が複雑になりがちなんです。
例は省きますが、英語でいうと関係代名詞がたくさん使われる感じ。
一目見ただけでは文章の内容理解が追いつかない可能性があります。
長文を読みなれている人、英語の翻訳本を読み慣れている人は
頭の中に情報をキープしながら内容を組み立て直すのが得意になっています。
だから自分には理解できる文章として、複雑な構文を作りやすい。
ところが広告などのキャッチフレーズは、一番最初に目がとまるところです。
読み手がどのように目線を動かすか?
読み手が何文字を一気に捉えられるか?
読み手がどれぐらいのスピードで文章を読めるのか?
そうした読解力の違いによって
キャッチフレーズの内容理解の仕方が異なるわけです。
気になる単語だけに反応して
頑張ってキャッチフレーズを読んでくれれば大丈夫ですが、
キャッチフレーズの文章の解読に負担がかかって
読むことさえ止められてしまっては、元も子もありません。
広告やホームページを目にする人が、どんな人なのか?
その文章を書いている自分と同じ頭の使い方をしているとは限りません。
自分にとって問題のない、当たり前の文章を書いたとき
それが一般とマッチしないことがある、という話です。
論理が飛躍するのも、
「これぐらい言えば納得するだろう」という理由の説明が
自分の理解の仕方を基準にして作られているから、といえます。
キャッチフレーズが長くなるのも
「自分なら、この文章で意味が分かる」という発想のもとに
平均的な人のことを想定していない、といえるでしょう。
どうしても自分にとっての基準で文章を作ってしまいやすいんです。
ビジネスにおいて、特にこれは仕方のないことかもしれません。
最初に公告やホームページなど、形を作ることができる…
つまり「0から1を作れる」特性があるわけです。
前述のメタプログラムでいうと『主体行動型』です。
主体的に行動をする、というのは
端的にいうと「自分の気持ちに素直に動く」と言い換えられます。
周りに合わせて行動を選ぶというよりも
自分を基準にして率先した行動が多い、ということです。
反対に反映分析型は、ああだこうだと人の気持ちを考え過ぎたり
多くの可能性を検討し過ぎたりして、行動に踏み出せません。
ビジネスを立ち上げた”主役”に多い主体行動型は
そもそも他人の立場で考える頻度が少ないんです。
だから行動が早いともいえます。
その分、メッセージを表現するときには
自分の基準で語ってしまいやすい。
読み手、聞き手の立場に立つとか
平均的な傾向を想定して、それに合わせるとか
そういったことは積極的にしないわけです。
僕はそのタイプではありません。
色々と検討してから行動します。
だから自分のビジネスを形にするのが面倒臭くなりがち。
世間との数少ない接点であるはずのブログだって
この通り、いつも後回しです。
反面、一度作られたものを編集するのはやりやすい。
このあたりの個性の違いがあって
ビジネスを立ち上げる人たちの個性を補える形になっているからこそ
自然と頼まれることが増えてきているのかもしれません。
自分からやるつもりは相変わらず、あまりないんですけど。